こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

# System 1 Marketing

トランプさんが調査結果に基ずく意見を汲み上げて自身の決定をしているといっていることに対して既存のマスメディアは猛反発しているというのが現時点での世相のようです(2017.02.06.)。マスメディアはサンプル調査しかできていないという意味でバイアスを内包しつつ、トランプさんは選挙結果というビッグデータをもとに自身の支持者の多数意見を採り上げる。お互いの物差しが異なるために意見がまとまることはなさそうです。 

そもそもが「クリントンはなんか信用できない。」とか「トランプ嫌い!」という情動にはたらきかけるスタイルの二極対決となったこの選挙がそもそもの不幸の始まりでした。

System 1 ポリティクスとかマーケティング とはなんなのか。すこしつぶやいてみました。

つまり遅れて市場に入るときは、その市場がまだクラッター化していないことが条件になるといえるでしょう。

しかし模倣品はいろんなところからいっきに増えます。だからいっきにクラッター化して本家とか元祖であっても知らない間に追いやられてしまう。

アップルはけっして一等いちばんでことを興してはいません。いつも3番手あるいは5番手で参入しつつ、しかし参入にあたっては先行する企業を破壊するための戦略は確実に準備したうえでやってきます。それと同時にブランド化戦略も抜かりありません。

顧客の種類というものも実は意識が必要だと言えます。値段をひとつのフィルターにするという方法が一般的には行われていますが、所得格差が進んだいま、金持ちでも作法のないのはたくさんいるのが現状です。そして異文化からの客はガラパゴスなわれわれの文化を理解できていないというか、日本文化リテラシーに欠如している。だからいろんな問題が生まれやすいと言えるのです。

 

脱線しますが、バイクは明らかにシステム1に働きかける乗り物です。自分で運転する車(自動車)はもうすぐ自動で運転してくれる車(自動^2車)に変わってしまいます。おそらくこれからの車はこれまで以上に消費されるためのグッズのひとつへと変化するのでしょう。

二者択一は、どちらの政策がよいかではなくどちらが好きか嫌いかに容易に落とし込めるということがここに来てみえてきたのはある意味、選挙制度にもとづく民主主義の限界なのかも知れません。つい先日、小池陣営の勝利で終わった都の選挙も結局はSystem 1 的でした。彼女もまた時期がくれば次なる候補に同じような手法で追いやられるのでしょう。それがシステム1ポリティクスの宿命です。

 

こうした政治手法は、破壊的イノベーションM&Aで巨大化するさまざまな事業とほとんどその形態が同じで、われわれはいまほど政治からいろいろなディールのやりかたを学べることはないのでは・・・。

 

 

 

#なぜ難聴になるのか

節分のこと

恵方巻

なんだか知らないうちに恵方巻きを食べることは当たり前な習慣になってきた。

バレンタインデーに始まりホワイトデイ。そして続いて出てきたのが恵方巻だ。いずれもマーケティングの専門家が知恵を絞ってあみ出したすばらしいビジネスモデル。

最近ではこうした仕掛け人がさらなるイベントという位置づけでハローウィンもビジネスモデル化してきている。

貝原益軒のアイディアで生まれた土用のウナギ同様のはなしで、こうした習慣とか慣習と思われているものの多くはビジネスパーソンのアイディアにわれわれ消費者がみごとにしてやられているにすぎない。

で、今回もまた2月3日が近づくにつれ恵方巻きが話題になりはじめてきた。

若い人たちと話すとまるで恵方巻きを食べるという習わしは何百年前からもあったかのようだ。

「先生のご実家だと恵方巻きにはなにを巻くんですか?じゃこ天とかちりめんじゃことかですか?」

なんて質問してくるのもいる。

「ふざけるなそんな習慣は宇和島にはない!」

なんて怒鳴ることもなく、

「ふんふん」

とそんな彼らの質問を受け流している。

 

十字路と魔界

今朝のNHKラジオでは、なにか聞きなじみのあるトーンのおばさんが登場していた。

残念ながら宇和島じゃなくて宮島のかただったのだけど、

彼女の節分の習わしの話には耳をうばわれた。

  1. カエシ(カイシ・ちり紙)に節分豆を年の数ほどそして気持ちばかりのお金といっしょに包む。
  2. そのつつみをたずさえ、夜中に十字路まで出かける。
  3. 交差点に、背を向け、後ろに放り投げるようにそのお包みを投げる。
  4. けして、ふりかえらずいちもくさんで家までかえる。

というそれだけの話だが、

ぼくはあっという間に50年前の小学生の頃にタイムスリップしてしまった。

 

交差点は魔界との結界

子どもの頃の自分は交差点でそれを放り投げる儀式のために、節分の夜は決まって年の数ほどの豆と賽銭(さいせん)を丁寧にカエシにつつむことをを毎年かかさず行なっていた。決死隊さながらに神妙な気持ちでそれをしていた。

四国は、えんま様信仰もさかんだ(善通寺には戒壇巡りもあるくらいだ)。

そうした習わいはどこの家庭でもあたりまえのように行われていたと憶えている。ぼくの価値感のなかではえほう巻きよりもこれのほうがよぼど大事な記憶だ。

節分は、えんま様のお正月

正月に神社にお詣りに行くように、節分の夜は魔界への入り口がある交差点にいく。

そしてて神社に神社の作法があるように、えんま様の使者である鬼に、ぼくらは豆と賽銭を奉じる。そう、ぼくは「ウソついていません。悪いことしてません。だから鬼さんそのことをえんま様にも伝えてくださいね。」と地獄に行かないですむさんだんを念じていた。

翌朝、小学校への登校のすがらその交差点を横目に見ても、昨夜投げたあのつつみはないし、豆クズもお金も散らばっていなかった。

だからぼくは本気で、交差点は魔界とのさかいで、賽銭と豆を鬼が取りにやってきていると信じていた。

あの頃は、夜になるとほんとうに闇のようになり、交差点は月明かりくらいしかなかった。「シーン」とよるの静けさだけが聞こえてくる。今のような該当の明るさからは想像できないくらいに新月の夜などは漆黒の夜だった。

「さても魔界の鬼いでてぇ、豆と賽銭をしっかと持っていたとなぁ」

と朝から震え上がっていた。

いつしか忘れていただいじな習慣

東京に来てからはサッパリそんなこともしなくなってしまった。

なんどかそんなふうに豆を交差点に放り投げたことはある。だけど翌朝にはゴミの残骸にしかなっていなかった。おまけに交差点にはぼくの放ったのがあるだけだ。

東京にそんなことをしている人はほかにいらっしゃらない。

道路にはさみしくというか個汚く、ぼくの投げた豆と小銭が散らばっていた。

節分の翌朝は、自分のまいた豆とお金を自分で片付ける。何度かそれをくり返すうちにこの大事な慣習を封印してしまっていた。そのことをラジオの中の宮島のおばちゃんが教えてくれた。

 

こどもたちは大きくなり、それぞれに忙しくなった。

皆が揃うこともない。

自宅でのまめまきもそぞろ勢いがなくなった。

ましてや年の数ほど豆をたべるのは、もうなんとか避けたいそんな年になってしまった。

このままでは普通に節分を過ごすこともなくなるのではと思うようにもなってしまっている。

鬼も住めない大都会

もう鬼もおちおち出て来れないくらいに都会は恐ろしいところになった。ぼくの住まうこの東京は鬼さえも近づけないおそろしいところなんだとそんなことを思っていた。そのことさえすっかり忘れていたことを今朝のラジオで想い出さされた。

ラジオの中のおばさんの声

ラジオの中で宮島に住まうというおばさんは、そんな作法についてくわしく話をくわしくしてくれた。

月曜日の朝はきまって、NHKラジオを5時から聞いている。どちらかというと番組を聞いているのではなく、番組と番組の切り替わりの時のエンディングに流れる音楽とか、どこかいなかのかたの地元自慢とか有名な先生の健康に関するお話とか、内容じゃなくてその音声とか会話のリズムかを時計がわりに、朝の身支度を進めている。

ところが今朝のラジオの中のおばさんの声はどこか懐かしいリズムを持っていた。自分の中の年長のかたのイメージにぴったりあてはまる。標準語でお話しされてるのだけど、そこにはそう郷里のニュアンスのリズムがあったので聴き入ってしまった。そんなこともあって今朝の身支度はてが止まってしまい少しいつもより手際が悪くで遅れそうになってしまった(~_~;)

 

豆はどこに行った?

幼いころに毎年行なっていた年の数ほどの節分豆と賽銭を交差点に投げるあの豆とお金はどこに消えたのだろうか。

(きっと四国にはまだ鬼がいるんだ。宇和島には鬼ヶ城もあるし・・。)

いまでも節分の時期にはきっとえんま様の使いの鬼が宇和島にはやってきてきてるに違いない。

なにより鬼も怖がる都会にはそんなに長居するもんじゃないなと、すこしながくなりすぎた都会生活を反省した。

 

さて今年は、どんな節分(恵方巻き)になるんだろう。

イヤホン、ヘッドホン、聴き比べ^_^

ボーズのクワイエットコンフォートのイヤホンとヘッドホン、そしてUSDのクリアネスイヤホンとの聴き比べをしみた。

 

条件  静かな室内、iPad Air

音源  オーディブル、アマゾンビデオ、iTunes

 

ことばのメリハリ  クリア > QC ヘッドホン  > QC イヤホン

Jazz.      クリア > QC ヘッドホン > QC イヤホン

バイオリン   クリア > QC ヘッドホン > QC イヤホン

ノイズキャンセラー がないのに なぜか他社並みにクリアネスはノイズキャンセラーがあるように聞こえる。

低域をリアルに出しているからだ。

不自然に位相のズレが生じるような加工をすることなく、ただ1つのダイヤフラグムから音を出すとこうなるのかという驚き。

膜のエッジで生じるノイズが全くないこと人工的に作られた音の持つ位相のずれないことがその音の良さだろうというのが僕の印象。

 

 

u-s-d.co.jp

 

クリアネスイヤホンはいわゆるドンシャリ感は全くない。イヤホンなのに音は足元から湧き上がってくる。上から降ってくるソニーとは大違いだ。

最初は低域が弱い印象であるが。実際は違う。音量を下げても低域は減らないし、その逆に音量を上げても高域で耳が圧迫されることもない。低域と高域が逆ざやでノンリニアになっている印象だ。

 

 

 そういえばぼくの使っているQCは初期型。もうパッドを2回も交換している。後続モデルも持ってはいるけど音質は初期型がいちばんナチュラルです。

 

 このイヤホンは音を聞くと言うよりもノイズキャンセラ-として使うためのものじゃないかとぼくは思っているのです。

 

ここには書きませんでしたが、とにかく耳を守るためにも1万以下のイヤホンには手を出さないこと!

 

クリアネスイヤホン(ユニバーサルサウンドデザイン社)はすごいぞ!

沈黙 サイレンス

明日の封切りを前にKindle遠藤周作の原作に目を通している。

フェレイラ、キチジローの姿がまるで色彩のついたように湧き上がる。

ぼくはキリシタンではない。葬式では仏教を利用し、正月は神道を信奉する。そして天皇誕生日の翌日にクリスマスを祝う八百万派だ。

だから、遠藤周作の描写を読んでも実際のことを想像できるだけの知識はない。

なのに読み進むほどにその情景に色がついてくる。それもなんとなくシャガールのようなぼんやりとした色がついてくる。

ぼくはこれまで文字を読み進むことでこんなに色彩を感じたことはなかった。

 

例えばぼくが気がつけば比較的読んでいる村上春樹からは全く色を感じない。彼の作品はいつもモノクロかグレースケールだ。

沈黙を読み始めた時ぼくの頭の中に現れた色彩は、あることを思い出させた。そう三島由紀夫の作品はいつも金ピカな色にあふれていたことを。先日発掘された三島のインタビュー映像の中でも彼は自身のその表現について『豪華に盛り込みすぎている』というようなことを言っていたがたしかにそのむかしむさぼるように読み漁っていた時ぼくが求めていたのは三島の金ピカなことばだったと思い出した。

 

遠藤周作キリスト教の匂いがする。それ故に避けてきた。いまはじめて読み始めた彼の文体には、司馬遼太郎にもない色彩があふれている。

読み進みながらぼくはその色彩の表現の秘密にいま魅了されている。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 まだ映画館に行けていないのに・・・(T_T)

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これねたばれちゃうの?