目が見えないことはヒトとモノを切り離し、聴こえないことは人と人を切り離す。
「目が見えないことは人と物とを切り離す。しかし耳が聞こえないことは人と人とを切り離す。」
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2018年4月17日
岡本道也先生はよく仏の顔は3度までとおっしゃつていた。 https://t.co/SIain35PPL
目が見えないことはヒトとモノを切り離し、聴こえないことは人と人を切り離す。
30年ほど前、岡本道也先生という補聴器の大家がいらっしゃった。ボクは補聴器適合判定医という資格取得のために、所沢での1週間の缶詰合宿に参加してた、その時、講師のひとりとしていらしていたのが岡本先生だった。
1週間で学んだことはたくさんあったはずだがあまり覚えていない。憶えているのは岡本先生がおっしゃった「仏の顔も三度まで」ということばくらいだ。難聴者を取り巻く隣人や家族は、一所懸命に難聴の方をケアしていても、同じことが三回続くと堪忍袋のおが切れる。三回聞き返すと相手はうんざりになる。高齢のじいさんが不機嫌なのは周囲の皆が不機嫌でそこに身を置くだけだから難聴者も不機嫌なのだとおっしゃっていた。
そのときは4人部屋の合宿だった。おかげでボクはふたりの素晴らしい耳鼻科医を友人に持つことができた。ひとりは医師会の理事まで勤められた小森先生。そしてもうひとりは、潜水艦勤務しているのだという放射能晩発障害と思しき不調を訴える若い耳鼻科医だった。彼は潜水艦の任期が終わると、離島で数年過ごし、それで年期が開けて無罪放免自由の身になれると言っていた。毎晩のように所沢の駅前の赤提灯に繰り出しあびるほどのみあかした。蛇足ながら小森先生とはその後に騒音性難聴の担当医講習会でもご一緒した。
閑話休題。
見ることには二つのストリームがあることはこのブログでもなんどか取り上げている。
見るという行為は、シェイプと色からなんであるかを名称として捉え、重さと距離を類推する作業に集約される。雰囲気とか匂いとかよりもずっとずっと深くヒトとモノの関係を突き詰めるのがこの器官である。
いっぽうの聞くは、聞くと聴くでは大違いな情報処理をしている。
人と人をつなぐのはもちろん聴くのほうだ。聴くは同じようにその言葉からある種の名詞のようなものを導き出そうとする器官ではあるが、その時の参照は純粋に音の記憶との参照手続きとなる。記憶を手掛かりに聞いたことばから聴こえを生み出すのである。参照する情報には、単語の意味も当然必要であるがそれ以上に、音から縁上回や角回というニュアンスやムードを感じ取る部分がおおいに働くことで聴こえが生まれてくる。
参照をベースにするということは、関係性のリフレインを参照していると言って良いだろう。聴覚がコミュニケーションの要とはそうした意味からのことなのだろう。
冒頭に紹介したネット記事はもちろん企業のプロパガンダ的広告であるから注意して読み込む必要があるが、この記事では55歳から夫婦の危機が来るという話を書いているから読まないわけにもいかない。軽度難聴でも仏の顔も三度まで。
58歳の財務次官の話題で盛り上がっている今日ではあるけども、つまりは55過ぎた男は聞こえていない。静寂のなかでひとりさみしく過ごしていて、若者ことばを聞き取れず不用意な親父ギャグを連発していたのだろうと。カーソンマッカラーズの心は孤独な狩人に出て来る聾の主人公とたいして変わらない。
55歳とはもうすでに老境に達しているのだと思う。