『君の名は』 (注意!ねたばれあり)
久しぶりに泣きました
ANAの羽田 北京便で話題のアニメ映画 『君の名は』 をみました。
往復で結局3回もガン見してしまい。
挙句に3回とも涙腺ひらっきっぱなしでした。
こうしてブログを書いている今も
『タキ』
「よつは」
というエコーが耳の中で鳴り響いています。
何回も立て続けに観た映画
こんなにも何回も立て続けに観た映画といえば・・・
の4つくらいでしょうか。
確かにグランブルーとかニューシネマパラダイスとか大好きな北野作品は何度も観ています。それこそどれも10回以上観ているように思います。だけど思い出したように年1回くらいで観ているだけで、今回のように駆り立てられるように繰り返しみるということはありませんでした。
『君の名は』 を立て続けに3回も観たのはぼく的にもとても稀なことで、なにがそこまでぼくを衝動を駆り立てたのかとても気になってしまいました(もちろん飛行機の中での鑑賞ですからコストというハードルがとれているので一般視聴者とは多少モチベーションが違うかも知れません)。
なにがそんなに涙腺を刺激したか
バッハが好んで使っていた構造主義的時間展開がみごとに取り込まれてたのがその理由であるとぼくは解釈しています。
時系列としての文脈を分脈して、分凝して、さらにそれを交錯させながらリフレインさせる。そうした複雑なコンパイリングの結果として作品をまとめる。なんかアメリカ連続ドラマのパーソンオブインタレストでハロルド・フィンチがガラスのボードに写真や新聞の切り抜きやらを貼り付けて、そうした点と点を線でつなぎながら解明していくやりかた、松本清張っぽいやりかたによって、ラブロマンスにスペクタクルというかサスペンスの香りを上手に盛り込んでいるのかいちばんの理由であろうと。
脳生理的に言い換えるなら、記憶の鍵となる 「ロングタームポテンシェーション (LTP)」の尺で時間を区切り(分脈し)、光や衝撃音を伴う映像はその都度音楽や効果音をミスマッチさせ感覚統合を部分的にしかおこさせず、記憶をあいまいにさせて論理的記憶を遮り、感覚統合のパターンをそのつど切り替えて情動的記憶化の断片化を複数もりこみつつ。最終的にそれの統合を90分でまとめる。レム睡眠と記憶と覚醒を忘却曲線のなかにすっぽりおさめた、そんな感じに思えたからです。
音楽における構造主義を、映像においてみごとに完成させた点がこの『君の名は』という作品が、中毒のようにまた観たくなる効果を生み出すことに成功した理由であるように考えています。
繰り返しになりますが、90秒と90分という尺の中で巧みに1/fゆらぎが取り込まれたことがその成功の理由だと思ったのです。新海監督作品ならではの「風景が動く」効果は視覚と聴覚のミスマッチやアニメが醸し出す嘘っぽさをみごとに払拭し、ベストカプリングとして絶妙なるマリアージュとなり、「また観たい!」という効果を生み出したのだろうと。
わりとインターナショナルな展開も好感度アップの原因か
作品的のまとめ方は、いわゆる日本風ではありませんでした。そして父になるみたな含みもなければブラザーみたいに監督からさいごは背中を突き飛ばされてしまうような感覚はどこにもありませんでした。
ディズニー風のというかアメリカンなじつにハッピーエンドなまとまり方をしていたことは、(ある意味ではぼくに馴染めないところでしたが ) これからも世界的に大成功していくための定席でありそれ故のこの世界的評価かと。ジブリの作品にも共通する湿っぽさがない点は、これまでの新海監督作品と比較しても大きな変化、おおきく踏み出した感があって作品としてとてもとても好感を持てました。
ポスト宮崎は間違いなし
いまアニメが面白い、感動で涙するほど面白い。
彼の作品が計算されたものであるなら、再現性のある方程式でこれが作られていたのなら、まさしく新海さんはポスト宮崎であると、そして真のポストディズニーである。
大いに期待しようと書きながら4度目の(T_T)でした。
スバルファン的にはインプレッサのカーオブザイヤーで喜んでいるこの頃ですが今回の新海作品も「本家日本のアニメここにあり!」という感じでとってもバンザイな気分です(・・||||rパンパンッ
では、また・・・(*^。^*)