こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

Kindleか紙か。それはなお問題なのか?

今週のお題「読書の夏」

まずは、本を読むことはとても大切だ と結論から。

小説を読むことは、他人の考えや生きざまを手っ取り早くトレースする格好の手段だ。読み終えた後はその感情移入からヒロインにもヒーローにもなれる。変に映像によるプライミングがかからないから小説の世界観は容易に憑依してくれる。小説は、よい人生のシミュレーション装置だ。

ビシネス書やハウツー本も小説ほどではないものの 自分の目指す方向性なり志向なりイメージを固めるのに役に立つだろう。

ノンフィクションであれフィクションであれ、読み手は書き手のメッセージから何をか学ぶ。

たからこそ、声を大にして、本を読むことはとても大切だ と言わせてもらいたい。

もちろん書籍など読まず、座して師から学ぶも有意義である。少なくとも一子相伝の術や技を学ぶはいくら座しても身につかない。書き記せない世界観というものは間違いなくわれわれの住まう世界にしかと横たわっている。

読書のよさをわかっていても、今の人はせわしない。時短を重んじる。彼らは、読書が無駄とは言わないが、その時間は無駄だという。そして、それが転じて言葉では「読書は無駄」と言い始める。だけど彼らは読まなわけじゃない。こっそりと他人の読書感想文を拝借してわかったふりをしている。読書はいらないと言いながら、その実、しっかり親書新刊のまとめサイトの要約なんかに目を通している。

先日、Wikiに寄付したら、創始者から自身の会社のインド人マネージャーは学歴がないと自慢する挿話のついたお礼メールが届いた。学歴のない彼はインターネットをたよりに学歴のある人より碩学になれたと。彼は師につくこともなく、本に触れる機会もなかったが、ディスプレーの中の世界観を通じて、学歴社会な人たちを凌駕する力を得た、そうした力がWikiにはあるだからこれからも応援してねとメールには書いてあった。そういえば昔みた映画のシーンの中で、アフリカの奥地、父親に連れられ、学校にもいかずの少女の博識に、キャンプを訪れた訪問者が驚く。すると少女は「辞書たけで学んだ」と言うそんなシーンがあった。そのシーンに感動した父は小学生の私に平凡社百科事典を買い与えてくれた。残念ながらそんな環境にいたはずの自分は、くだんのインド人のような碩学からはほど遠い。言い訳がましいが、当時のひょろっとノビノビッチなぼくにはあまりに分厚くて重くて取り扱えなかった。いまはネットに繋がりさえすれば図書館さえ必要ない。iPadKindleも百科事典よりもうんと軽い。ICTが広がれば少なくともWikiとカーンアカデミーでおよその知識はいまだって得られる。ノーベル賞平和賞のラマラさんの願いなんてどれほどの意味を持つのだろう。師に就くことの意味が、ある領域において意味をなさなくなっているのはどうも間違いなさそうだ。

閑話休題。   iPadが登場し、KindleやCoboと言った電子書籍が巷に溢れるようになったのはごく最近のことだ。10年前と今ではスマホタブレットも驚くべきほどの普及率だ。ボクも多分にもれずKindleを愛用している。最初はiPadアプリで読んでいたが、Kindleに値ごろ感が出たころに、まとめて3枚買った。

ボクがKindleを買った理由は、ひとこと「iPadで読むと目が疲れる、肩がこる」だ。もちろん当時ボクが持っていたiPadはエアじゃないし3Gモデルだったから重かった。今のエア2Wi-Fiモデルなら買い足ししなかったもしれない。

最初は、Kindleを職場や自宅などにおいて同期するのを楽しんでいたがそのうち家族のものになった。重さや大きさが絶妙で基本何枚も持たなくて良いことを体を持って確認できた。

iPadAir2WiFiモデルを手にしてからまたしばらくはボクのKindleはほったらかしになった。少しきになる600ページもある英文書を読みたいと思った時またKindle君が復活。あまりに分厚い本をいつも小脇に抱えるわけにはいかなかったからだ。こりゃ面白いとその英文書の翻訳を思い立ち出版社に掛け合った。話はトントン拍子で1年越しで取りかからなきゃならないことになるとまたKindleから遠ざかった。Kindleの文字サイズ自由はページもレイアウトもわからなくなるから翻訳のリファレンスには待ったく使えない。

講演とか出演みたいな仕事が多くてパソコンなしでも済んでいたのが また大画面のスクリーンがないと仕事にならなくなった。

今、iPadはもっぱらウェブブラウザ専用機だ。Kindle又吉直樹とかソフトノベルのためのものになっている。

もちろんそんなぼくでも書籍は買う。コアな音楽ファンが聞くためのCDと保存するためのCDとで必ず二枚買うように、ボクもKindleで読んで気に入った本ならあとからアマゾンでポッチと書籍版を購入する。

Kindleか書籍かなんて論争は不毛だと思う。メートル尺か鯨尺かの論争みたいなものだ。同じものでも違うものさしで捉えることがどれほど自分にとって有意義か?Kindleが教えてくれたように思う。

まずはKindleでも書先でもなんでも良いからこの夏は 読書の夏 を決め込んで読書三昧を始めてみてはどうだろう。

数万冊の蔵書へのアクセスがいつでもどこでも可能なKindleがイノベーティブに破壊してるのは紙の本の市場じゃなくて、流通とか公共機関を含めた人や物の移動媒体だ。矮小な議論に迷い込まずまずはどちらも使いこなし、食わず嫌いじゃなくて新しい体験を重ねるほうがポジティブだ。

そう少しでも多くの知識を吸収していくことがいまの時代一番大切なんじゃないかな。


おわり(^。^)

耳と脳 臨床聴覚コミュニケーション学試論

耳と脳 臨床聴覚コミュニケーション学試論

PS
最近の書店の出店はもっぱら駅ナカとかショッピングモール内となるのが目立つ。そして立ち読みならぬ座ってじっくり読める環境を書店内に設けはじめている。
手に持つことや本の匂いを感じ取ること、そうした時間をしばし過ごすことで、手にした書籍を「衝動的に買ってしまう」ことを狙っているように見える。
しかしボク自身の消費行動を振り返ってみると、そうした書店で立ち読みしても実際の購入にはほとんどつながらない。面白い書籍に巡り会えしばしの時間を伴にしたとしても、そこは踏みとどまって衝動買いしないようにと自分をいさめる。ひとまずはAmazonの欲しいものリストに追加してそこを退散することがほとんどだ。
すぐに買わない理由は、
  1. 衝動買いは避けたい。
  2. 震災で懲りているので書棚には欲しいものだけをシンプルに収めたい。
  3. 文字ばかりの書籍なら老眼なボクにはKindleのほうが読みやすい。
  4. 内容が軽いほどに本棚を無用な本で埋めなくてすむKindleを志向してしまう。
  5. 後で買いに行くという手間は、例えば二駅先の大型の書店まで足を伸ばしたと仮定すれば500円はドブに捨てるにひとしくて、それならいずれブックオフ行きが決まっているような書籍なら急いで買うまでもなかろう。
などの発想からきている。
実際、今のボクは、
①書評や宣伝 →②立ち読み →③気に入ればまずお気に入りリストに保存 →④Amazonのなか見せで再度立ち読み →⑤しばし冷却期間 →⑥Amazonでオーダー。という流れがほとんどだ。あらかじめKindle版が用意されていないような書籍には最初から関心を示さない → ⑦書籍そのものを所有したいときだけ、書籍購入をしている。考えてみるにボクはすっかりKindleづいているようだ。