耳と脳 三章への質問 その2
前回、読者から「三章への質問」を頂いたこと、それに対していくつかの答えにならない返事らしきものをつらつらと書き記したものをblogにアップさせて頂いた。
今一度質問を整理してみると・・
- 創造性において、聴覚コミュニケーションは必要であるか?
- 必要であるならその聴コミュはどのような体裁をもつべきか?
- そしてそれは継続的に必要なのか短期的に必要なのか?
といったことを問うているのではないかと考えた。それはその質問者が教育者でありそうした裃(かみしも)を羽織った姿?で問うてきたように思ったからだ。
「想像」・「創造」・「革新」。
いずれも今時代が求めている未来を作り出すために必要なキーワードである。
一方で、「妄想」・「信念」・「思い込み」といったキーワードは未来を生み出さないキーワードとして忌避されているようにも思える。しかし、ジュールベルヌの小説「海底二万マイル」や映画「バックトゥーザフューチャー」といった妄想の産物を見た若者の思い込みと信念によってそうしたものを生み出しているという現実がある。
The Lexus Hoverboard arrives August 5th - YouTube
ジュールベルヌの小説「海底二万マイル」の時代は、原著を英文で読むとか、日本語版を読むとかしないとその世界観を知ることができなかった。しかも、文面からその内容を感じ取る力がなければその乗り物のイメージだってきっとほとんど想像できなかったに違いない。だからかどうかはしらないが、海底二万マイルの潜水艦のイメージはその作品が映画化されてからそのイメージが皆の共通認識のような姿に収束したように思う。ホーバーボードをつくったレクサスの技術者も映画「バックトゥーザフューチャー」のイメージに強く影響を受けているように思う。こうしたものつくりという視点から見てしまうと、創造性には聴覚コミュニケーションは要らないのではないかと思うヒトも居るのではないかと思う。
ボクの場合はそう考えない。視覚的イメージとして作り出されたモノであってもその生成プロセスにおいては常に「言語」が必要であると考えるからだ。しかもそこに必要なのはメタファーに満ちあふれた言語だ。
- 思考は言語から生まれる。
- 相手の思考を理解するためには相手の言語を理解する力が必要である。
- そのために共通の言語をお互いが持つ必要がある。
- 一方で同じ言語を操りつつもお互いは異なる文化や思想をその背景に有していなければ論考や議論は始まらない。
- 論考や議論といった言語を通じての他者とのコンフリクトやエンゲージメントによって新しい思考がそこに生まれる。
つまり、創造性という行為においてさえもそこにはある種のレギュレーションが必要であり、共通言語が必要となる。
そうした環境が継続的に必要なのかある瞬間だけで充分なのかは、それぞれの業種や職種によって異なるのだと思うが、近年はすべからく数学化していて英語というシンプルな言語が語弊を生み出しにくいと言うことから重宝されているように思う。
皆が英語を話すような社会になればきっとその先にはふたたび日本語を話す科学者の受容が高まるのではないかと思う。そんな学問的周期はいつも70年くらいの周期でやってきて今の英語ブームはそうした流れの最後に燃え上がる炎のように見えてしかたがない。
かしこ