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こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

耳鼻科が衰退した理由

耳鼻咽喉科は花形だった!?

30年前、耳鼻咽喉科は一人前に仕上がるのが早く開業するにもそれほどリスクがないと思われていたためかどうかは知らないが、新卒には人気の入局先であった。

ボクが入局した昭和61年。その年に順天堂の耳鼻科に入局した仲間は、I川・H川・斉○・縄○・深○・九○・Y川、そして自分の8人であった。1学年90名+アルファの時代であったから卒業生の1割弱が耳鼻科医を指向していたわけだ。当時の愛媛大学の耳鼻科なんかは新入医局員の数が年によっては17名とか、内科よりも多かったくらいだ。とにかく耳鼻科医になりたいと若い医者が皆思う そんな時代だった。ボクは、そうした沢山の仲間の中で、自分なりの個性を発揮できる道を見つけることができていま現在がある。

 ところがどうだろう臨床初期研修制度がはじまると耳鼻科の門戸をたたく若者はいなくなった。当時と比べるとその凋落ぶりははなはだしい。もちろん慈恵医大や慶応大学のような入局者の多い耳鼻科の教室はあるにはある。しかし、そうしたごく一部の勝ち組をのぞくとどこの耳鼻科の医局も医者不足で悲鳴を上げている。

学会は若者が集まらない理由いろいろ算段している。そして、どうやらより専門的で高度な技術を持った専門家集団となる道を選んだようだ。そうすることで専門職の地位(価値)を高め、優秀な若者を集めていくという戦略のようだ。そのために専門医取得の研修や試験のハードルもどんどん高くしている。それはひとつの戦略である。しかし、上下よろしく敷居を高くする戦略には疑問も感じる。今は組織の頂点にいらっしゃる先生方の多くは、専門医制度の移行措置といわれる時代の人たちだ。60歳以上だとまず無試験(専門医認定試験を受けることなく)で専門医になった。ひとりの医者で耳科鼻・咽喉科・音声喉頭科・めまい科・頭頸部外科・食道科を完結できているヒトなんていやしないなんてことをどこかに忘れてしまっているようだ(内科が、循環器、神経、消化器などなど分化しているのに耳鼻咽喉科は組織を大きくみせたいばかりに分化できないでいる)。

話しは脱線するが眼科医は同じ時期にどんどん躍進した。レーシックなどの新しい医療技術の登場によるところが大きい。この自費医療の登場で大学勤務医がバイトで大学給与の2倍以上もかせぐなんてこともありえる時代になった。地位や身分とかではなく具体的なインセンティブにまさる求心力はない。だから眼科医を志望するものは後を絶たない。麻酔科や皮膚科や形成外科が人気なのも同じだろう。

耳鼻科はそんなインセンティブは打ち出せないままでいる。若者に支持される診療科というプレゼンスはどこにあるか。重鎮が練りに練った方針が「耳鼻咽喉科・頭頚部外科」という名称変更(案)であるようだ。という外科系の一翼を担うスペシャリストの集団という大風呂敷である。学際的広がりをもつマイナー診療科(皮膚科、眼科、耳鼻科)の中での個性的ポジションを取るのではなく、外科系診療科の一翼、つまり心臓血管外科や脳外科と同じような外科系診療科のひとつという高みに位置することを学会の方針として決めたらしい。結局、耳鼻咽喉科が誕生したときの発想から抜け出せないでいる。コンパクトにしかし明確に専門性を打ち出すことがどうも苦手なようだ。

 どの書物だったかは憶えていないが森満保先生の本にはこう書いてあった。「外科系の耳科と内科系の鼻科・咽頭科がまず一緒になりその後もそうした花いちもんめが進むうちに臓器別診療区分という流れのなかで耳鼻咽喉科というのが生まれてきた。」「そもそも耳鼻咽喉科はある理念に人が集まりそこから生まれた組織ではない呉越同舟な乗りもののようなのだ。」そう考えると今年になって耳鼻咽喉科・頭頸部外科に変えようと学会が真剣に考え始めたのもうなずける。しかしそれじゃ「ごちゃまぜカメレオン(レオレイニー)」を地で行くだけじゃないのか。

ボクの持論は、外科系スペシャリストではなく「耳鼻咽喉科・感覚器科」としての耳鼻科医像だ。エイジング医学やプロの歌手や料理人や音響専門家を相手にする専門家集団になるべきじゃないかと。口腔外科や形成外科の先生たちが垣根を越えた連携を積極的に行っているのに比べると耳鼻科医はあまりに引きこみりすぎないかと思えてくる。

ボクなら耳鼻科改め感覚器科でいくことを考える。

しかしボクの所属する組織はどうもそういう方針じゃないらしい。

ボクはもっぱら聴覚医学と脳生理学、そして音響学にしか関心がなかったから、耳鼻科のなかでは異端なのかもしれない。というよりもそうした仕事の専門家が20年前に言語聴覚士として世に出でていることを考えると、すでに耳鼻咽喉科医はそんな領域をかれらに明け渡したのかもしれない。

地に落ちた耳鼻科人気

CADET(カデット)と呼ばれるリクルートから刊行されている初期研修医向けの雑誌の人気診療科特集では、耳鼻科は「その他」にひとくくりされていてなんと最下位の17位。形成外科や精神科などにも及ばないくらいに学生からは見向きもされていない。

本来、耳鼻科を学べば、老人性難聴、小児急性中耳炎、発達障害などに関する臨床コミュニケーション、腫瘍学や感染症学、さらには補聴器_補聴工学など実に多岐に及ぶ臨床分野での研修をつむことができる。研究面においても、ボクはこれまでいろんな先生の元で産学的な研究に関わらせてもらった。そうした企業とのタイアップ研究の中には、ビールののどごしに関する脳活動、高級自動車の扉が閉まるときの音を聞いた脳の反応、耳によいスピーカーの研究といったふざけたものも沢山ある。もちろん匂いや体性感覚に関する研究までをもターゲットにしてきた。耳鼻科=感覚器科というとらえ方があったから学際的な広がりでユニークな研究を沢山できたんだと理解している。そしてそうしたことをしてらっしゃる耳鼻科の先生がどこかにいろいろいらっしゃるんだとずっと思っていた。特に大学を離れ市中病院での勤務の合間に細々と研究を進めていた時期には「大学は自由でいいな」とかってにおもいながら過ごしていた。ところが、久しぶりに大学という場所に戻って、それもチーフという立場で自由にできる段になって、そのたもろもろの耳鼻科医の研究者の集まりに首を突っ込んでみるとそうした楽しさを話題にする医者がひとりもいないことに気が付いた。

ステレオタイプに金儲けの話しにしかしない医者はどこの世界にも一定数はいるからそれはよしとしよう。しかし、学会という場所はそうした輩がどれほど世に跋扈しようとも本来もっとも熱い場所であるべきだ。そこにはついて行けないほどの「最新」やまばゆいばかりの「新技術」が百花繚乱していないとだめだ。つい最近あった東京フォーラムでの集まりは場所もよかったからとてもおおくの先生が集まった。しかしそこで展開される情報は、いささか食傷気味な演題や講演のくり返しだった。感動的なノイエスをあたえてくれるような、メモ書きする手が止まらなくなるようなそんな話をしてくれる演者はもうこの耳鼻咽喉科の世界にはいなかった。

 

「研修医がなぜ耳鼻科医を目指さないか?」

それは単純明快である。夢がないからである。大風呂敷が広げられてないからである。若い連中が最初からニッチな市場を目指すわけもない。将来役に立つそしていくらでも将来に診療科のコンバートが可能なほどの自由度がそこになければ惹きつけることは難しい。目新しさとか面白さにあふれ、別れるときは面倒くさくないそんな関係性を醸し出せなければいまどきのわかものが入ってくるわけもない。耳鼻科には眼科のレーシックみたいなインセンティブがいまのところないのだからそれしか方法はないのだ。面白いとか格好いいとかはとても大事なのだ。

 

そんな閉塞的な気分なときに内田さんのblogが目に止まった。

旦那芸について (内田樹の研究室)

 内田さんの思想信条にはついて行けないことが多いが、こと、合気道能楽、大学人という立場で展開されるかれの意見はいつ読んでも目から鱗というか、わたしの代弁者ではないかと思えてくる。このブログ記事を読むと耳鼻科が瀕死な理由がなんとなく見えてくる。

旦那芸としての耳鼻科が成立するためには、まず、耳鼻咽喉科の名人なる人材がその頂点にいなければならない。そして、頂点を目指すわけではないが、ひとまず旦那集として、その師匠を支えるべく旦那芸を学ぶことを由とするおおくの開業医がいなければならない。同じようなことをしているけれどもそこには品とか格とか当然技術とかにおいて圧倒的なレベルにある師匠が存在しなければならない。結局、耳鼻科に若者が集まらないのは、自分自身の魅力のなさそのものによるのじゃないかと思えてきた(しまった(-_-;))。

 

能楽合気道・脳研究・・・

 能楽には観世・金春・宝生・喜多・金剛の五流と鐵仙会の一派がある。わたしは、四国にいたときは観世浅見瓢月会に属し、上京してまず六本木の藤波先生を伺ったがそりが合わず稽古を中断した時期があった。青山を散策していると謡のこえが聞こえてきたのでそこをたずねると、「破門状を持ってくれば、ここで稽古してもよい」と言われ、親に電話すると「それはよかった」とトントン拍子で観世暁夫先生に師事することになる。年齢も近いからよいだろうと。暁夫先生はわたしの4つ年上でわたしは稽古に伺うと言うよりも終わった後に飲みに行くのが目的な不肖の弟子であった。いまは那須にいるせいもあり稽古も舞台も休んではいるが、定例会にはできるだけ足を運ぶようにしている。鐵仙会には名人の誉れ高い 寿夫 違いのわかる男の 栄夫 など異色の人材に溢れていた。一派を設けたのは衰退の危機のあった本家観世が生み出した絶妙なるバックアップシステムという意味もあったようだ。現在のように渋谷から銀座へと本家が躍進する時期に一派としての鐵仙会は啓蟄の時期にあるのだろう。

子どもの頃は親が自宅に東京から先生を呼んで家族や親せきやらあつめて稽古するそんな生活の中に能楽というサウンドがあった。だから自分にとって能楽は一生懸命に稽古するものでもなければかといってまったくなしというのも絶えられない。時間もなし、金もなしな自分は旦那(パトロン)することも出来ないでいる。それでもわたしの師匠は「なかがわさん、いいんですよ。きっとまたおじいさまのときのように、あなたのお子さんやお孫さんの代にいい意味でおつきあいできるはずですから・・」500年も続く世界は発想がちがう(^^;

 合気道歴も自慢できたものではない。ブルースリーにあこがれて少林寺拳法をはじめ、空手バカ一代を読んで「糸東流」カラテに入門したりと武道歴はあるがあしもとは固まっていなかった。大人になり武道に改めて向かい合ったのは、シカゴに留学した20年前のこと。動機は、親日の友人を手早く見つけようとしただけである。そこは富木流と早乙女スタイルの混在する道場だった。シカゴ合気会のブランチということであったがスタイルはとても異質であるときシカゴ合気会からは破門され、ミシガン富木流にカンバンを掛け替えるくらいの武闘派の道場?だった。道場長はそもそもカラテの師範だったからしかたない。ガチな当て身スタイルの合気道で、最初は突きのバリエーション(ボクシング、空手、少林寺など)を学んだ。杖術にいたってはアイスホッケーの防具と剣道の胴に身を包みフルコンタクトでやっていた。

日本に戻ってから本場の合気会道場に足を運んだがその雰囲気のあまりに日本的なとこがこれまたそりに会わない。アメリカ仕込みの自分はすでに異質なものを取り込んでいたようだ。そこでスポーツジムの有料レッスンで塩田先生スタイルを習った。グレイシー柔術なんかもいっしょに学べるごちゃ混ぜぶりだから、正直、とても実践的でおもしろい。だけどまともな合気道とはほど遠かった。

仕事が変わり道場に通うのはもう5年もご無沙汰だ。頃合いの場所には道場がないこともありいまはもっぱら自主練だけ。ひとりいっきょうとかひとりこてがえしを楽しんでいる。昨年暮れには、米国やフィリピンで活躍したブラックベルトのAさんとの接点というか交流も始まり、ますます、恋心に火がついている。先日久しぶりに大学時代のスキー部の先輩にお会いしたら、なんと週4日も極真に通っているとはなしをいただいた。いくつになってもそうしたことはしなきゃねとひとり納得。合気虫がうずうずしてくる。

 

脳研究は久しく遠ざかっていた。2004年のISBETが最後かもしれない。環境がそうした状況を生み出したのだけどそのおかげで補聴器や耳鳴に関心を持つことができた。音響工学や脳科学への関心をそこにシフトさせることができたからだ。

ISBET 2004

でも最近の趣味というか関心領域はもっぱらニューロマーケティングだ。光トポで測るヒトの行動と脳の関係。ニューロマーケティングというやり方は、がちがちの医学研究や基礎研究とはベクトルが違いとてもエキサイティングだ。

やはり脳研究はやめられない。いま大学に戻ったことをとてもよかったと感じている(けど大学の本職はとても脳研究とは関係ないのです(^^;)。

 

PS

新しい専門医制度は、週3日以上の耳鼻咽喉科勤務が条件となった。食うためには耳鼻科医を生業にせねばならないが、フルタイムでそこまでやる気もない。大学にいれば本当の意味での耳鼻科医としての実労は3日もないように思えるからだ。

平成33年の新制度切り替えのときにはきっともうわたしは耳鼻咽喉科専門医ではなくなっているんだろうなと達観さえしはじめているからこわい。耳鼻咽喉科専門医であることよりもそこを離れていく可能性に期待や夢を見いだしてしまうほどに、今の耳鼻咽喉科学は魅力がなくなっている。こんな変なヤツが共生できない組織=生物多様性をうけいれない社会は自然淘汰の原理によって消え去るのではないかと先行きを案じてしまう。

 追記2

正確さを欠くので追記しておくと、町には開業の耳鼻科の先生で溢れている。みな大成功で、開業で失敗することはありません。いないのは新規参入者。だから医師を育てるげんばは大変なことになってます。