MiCONS2022に3年ぶりに行ってきた。
コロナ解禁で世は、Go to(52)。
ぼくも乗り遅れまいと振興券とか52割引使って学会旅行してまいりました。
参加したのは、毎年11月に宮古島シギラリゾートの一角で開催されている宮古島神経科科学カンファレンスです。略してマイコンス(MiCONS)。今年は、第10回目となる記念大会でもありました。
9月の中旬に、演題のエントリー目的で抄録を送ったところ、主催者側から、特別講演に格上げするので60分話して欲しい。ついては現地まで来られたし。という知らせがエントリーして2週ほどした10月の頭にメールです飛び込んできたのです。
やったー☺️
ちょうど世の中は、自粛から52へと切り替わるタイミングでしたので、
旅に行けるぞーってな感じて二つ返事で快諾したわけです。
昨年、一昨年とコロナ禍で参加を見合わせていた宮古島。気分は大いに盛り上がり、俄然、気合を入れてで60分の講演準備に取り掛かりました。
2022年11月3日から6日までの3泊4日だったのですが、最初の3日間は天気に恵まれず、おかげで学会中の講演はすべて聴講という優等生ぶりを発揮するような参加となりました。
ぼくがどんな話をしたかというと、まあ、こんな感じの話だったわけです。
もちろん神経生理の専門家向けの講演ですから容赦ない難しい話をしてきたわけです。
今回のこの話は噛み砕いて、年明けの1月に開催される補聴器ハンドブック勉強会in浜松でゆったりまったりとやる予定ですので、MiCONSウェビナーで聴き逃した方は是非リベンジしてください。
最終日は見事な晴天。ふりそそぐ南国の太陽に癒やされ、フルチャージすることができました。
それではみなさん、来春1月、浜松で会いましょうね(^。^)
熱海に移動してまもなく半年
サラリーマンの宿命、勤務医もまた、組織の都合で異動します。
震災の年から、現在の法人の世話になり、栃木で11年。個人的には伸びやかに楽しく仕事させていただけていたのですが、人集めという点では、残念ながらぼくの魅力で若い医師が集まるということはありませんでした。
ぼく自身が強い開業志向を持ちつつ、なぜか大学病院で勤務医という大矛盾をやってるわけなので、当然、学びに来て下さった人たちは、開業に必要なスキルを身につければ卒業していく。ぼくも開業することは大いに歓迎なので引き止めない。
なので、組織は大きくなりようもなかったのかなと、異動が決まって改めて、大学は人育てではあるけど、病院的にはやめない人を抱えることがすごく大事なんだなあと。
基本、異動に伴って『異動しましたー。これからはこちらに来てください。』ってやるのが常なのでしょうが、残念なことに、今回の異動先には、栃木で用意できていたような器械がほとんど揃ってない。もちろん基本的なところはきちんと押さえてあるのですが、なかがわ流を実現するための道具が皆無。ということもあって、これまでかかりつけ的に頼って下さっていた患者さんをすんなりと受け入れることもままならない。
そんな状況の中で少しづつ、スタッフに新しい検査手技を覚えてもらい、少しづつ器材を揃えてという準備をしているうちにあっという間に6が月経ってしまったのです。
耳鳴に関しては7月下旬から、補聴器に関してはようやく今日、必要な器械の設定が終わりました。Primusという簡易型のREM装置をひとまずインストールしたのです。
この6ヶ月、REMなしで、経験的にこなしていたわけですが、それは心苦しいものがありました。年度末までには、アフィニティコンパクト化、ユニティ3のいずれかを導入する計画なので、その頃にはPrimusほサブ機として活躍ということになるのかなあなんて思っています。
実際には言語聴覚士さんにやってもらえるように段取り組まなきゃならないので、REMがサクサク動くまでにはまた3ヶ月はかかるのかもしれません。
まだまだみなさんにここにいるからおいでよーと叫べる状況ではありませんが、熱海はそろそろと始動し始めてますので是非ご近隣の方から三々午后おいでください。
台湾から翻訳本がリリースされた(^。^)
この3月、台湾の晶冠出版有限公司から『耳を鍛えれば認知症は食い止められる(自著、PHP研究所)』が、台湾にてリリースされた。
本来、昨年の7月のリリースを目標としていたがコロナ禍でその発刊がやや遅れたものである。
台湾のwebサイトを見てみると、
鍛鍊聽力就能延緩失智症
日本名醫教你最有效的聽力與大腦鍛鍊法
晶冠出版社
中川雅文│定價:280元
と紹介されている。
1元は4.2円くらいなので日本版よりかなりお値ごろだ。装丁や紙質が日本とクオリティ違うのがその価格差かなと思ったりしている。
古くからの台湾の知古である神経内科医師である白奇明教授に推薦文も書いてもらえた。
自分的には、、PHP 出版から出させていただいた本の中でいちばんの力作である本書が、こうして海外の多くの人のもとにも届くことを大変光栄に感じている。
年越しそば😂
毎年毎年、とあるお店から年越し蕎麦をお取り寄せするのがこの10年の我が家の決まりごとだつた。ところが今年はどうした事情か注文したはずの蕎麦が届かない。
雪のせいで遅れてるのかなとのんびり待っていたが、さすがに大晦日となると家族の顔色も険しくなってくる。注文先に電話してみてももう年末年始の休みに入っていて連絡も取れない。
そんなわけで僕はそばを求める旅に出かけることになった。
日本橋に向かうその電車の中でこれまでの蕎麦屋にまつわる記憶が走馬灯のように思い出されてきた。
・・・・・・
暮れに蕎麦屋の長い行列に並ぶようになったのは40年ほど前のことだ。須田町にあるその名店は暮れにはいつも長い行列ができた。
蕎麦屋の長い行列に並ぶのは楽しい。
ご無沙汰なご近所さんや普段昼間は顔を合わさない知古ともチラッと目配せだけなご挨拶をすることができるからだ。
新春のご挨拶が職場や親戚だとすると、暮れの蕎麦屋の行列は趣味や飲み屋の仲間とかとの年納めのご挨拶といった風情。
若い彼女連れてなのか娘さんなのか分からずなままに合図するだけだったり、そのシラフのその立派ないでたちに思わず深々と頭下げてみたり。暮れの須田町(のちにぼくの行きつけは池之端に移った。理由は後述)はちょっとしたイベントだった。
長い行列に並んで暮れに江戸前のそばをいただくというのは湯島に住むようになってからはじまった。マンションという名の長屋。家主の峰尾さんのお人柄から住民はみな仲良しだった。そこで根っからの江戸っ子のを作法は学んだのだ。
10年ほど前にそれをやめた。
正確には25年ほど前に、まず須田町を卒業(?)させられた。理由は至極当然のことだった。暮れのお店の大忙しな最中にそば味噌つまみにぐだぐだと後輩と2人して4人席に陣取ってお銚子次々とあけていたからだ。
「うちは蕎麦屋だ。蕎麦食わないならさっさと帰れ!」
とつまみ出されそれ以来須田町にはいってない。そう出禁になったのだ。
それからは酒飲みにも優しい池之端に屋さを変えたが、そうこうするうちに店は無くなってしまった。というのも、その店、Instagram映えするとかで外国人が大挙して喰いもしないのにいろいろ注文。その(食べ物を粗末にする)態度に店主は怒り心頭、
「もうやめた」
と看板降ろしたらしい。
好きな蕎麦屋は、
- 豊玉の田中屋
- 赤坂の更科
- 須田町のやぶ
- 須田町のまつや
- 池之端のやぶ
- 目白の翁
- 湯島の古式もり
- 湯島のやぐ羅
- 広小路の蓮玉案
といったところだけどもうたたんでしまったところも少なくない。
田中屋までわざわざ電車とバスで行くのはちょっとつらい。ノーカーライフな自分にはハードルが高いのだ。目白通り沿いにあった翁はとうの昔に広島だか岡山だかに引っ越してしまったし、十割な『古式もり』も店主が肩を痛め、後継者いないからとたたんでしまった。やぐ羅も店たたんで久しい。
そんなわけで、ここ最近は、あたたかいにしんそばを京都から取り寄せ暮れに頂くことにしていたのだ。ところが今年はちょっと事情が違いそばもにしんも我が家には届いていない。
・・・・・・
日本橋のデパートの地下食品売り場まではたどり着けたけどそのレジ待ちの長蛇を見て、早々と諦め家に帰ることを決めた。
家族は昼ごはんも買って帰ってくれると思っていたらしくあわてて東京駅です駅弁を仕込んで帰路を急いでいる。
肝心の年越しそば問題は未だ解決してない。たぶん今年の大晦日は、最寄りのイオンの食品売り場にある蕎麦に家族でいつもと違うと難癖つけながら新年を迎えることになるのだろう。
まずは、昼飯食ってから考えることにしよう。
みなさんも良い年の瀬をお過ごしください。
合掌。
昼ごはんは、寿司清でお弁当と考えたけど店内混み合っててアラカルトは時間かかるからと若廣のアナゴとサバのお弁当にした。ご馳走様でした。
【その後のてんまつ】
いま紅白を観ながら蕎麦をすすっている。温かいきのこそばをいただき、2杯目は、同じく温かいにしんそば。
永平寺の10割そばは予想と異なり至極上等でおいしかった。
これで無事年は越せそうだ。
3枚だけ買った年末ジャンボも無事当たることもなく来年も普通な人生が待っているようだ。
2022年が皆さんにとって良い年になりますように。
Wikipediaの自分のページが洗練されてきた。
Wikipediaというのは、インタネット上に公開される無料の百科事典です。
Wikipedia commonと呼ばれる匿名のボランティアによって提案、執筆、修正、加筆が繰り返され、事実というか本質に近づいた情報がそこにアップされるようです。
ある意味当たり障りのない情報ということなのかもしれませんが、そのベースはネット上にこぼれているあるいは溢れている事実からなるものということのようです。
最初にぼくの記事をあげてくれた人は、およそ、ぼくの著作にある略歴やはじめにとかおわりにに書いた自伝的随想を引用したもののみでしたが、そのうち、テレビの出演記録や出版物の記録とかがどんどん盛り込まれ、最終的にそれをcommonなる人物が仕上げてくださったようなのです。
ダルマに目を入れるかのように、著作権の放棄できる自画写真を提供してほしいと依頼がありそれに応え写真をお渡ししました。
そしてその結果、Wikipediaで中川雅文と入れると素晴らしいサイトがそこに展開されることに至りました。
Wikipedia commonの方々に感謝感激です。
ありがとうございました😊
ということで、御礼とWikipediaできたよのお知らせでした。
ふと気がつくと4月以降更新していなかった(-_-;)
視覚のストリーミングとして、なに(だれ)経路とどこ経路がある。
聴覚のストリーミングは、いつ経路となに(だれ)経路。
そして皮膚感覚のストリーミングは、どんな経路とどちら経路である。
それぞれの感覚モダリティは、他のモダリティと競合したり相互作用を生み出したりするのは、経路として分類した情報カテゴリーが他の感覚モダリティとクロスオーバーしているから。
ストリーミングの話は、過去記事を参照されたい。