平等が生み出した差別
フランスにおける平等の思想の中に「公立学校に宗教を持ち込まない」という考え方がある。
それゆえにクリスチャンであっても十字架のイヤリングやペンダントは身につけないあるいは見えないところに密かに装うことを求めている。
イスラムの悲劇は、ヒジャブによって生まれた。
女性が黒髪を隠すようにスカーフでおおう装いのことである。
フランスは平等であり、自由である。
そのためにはある空間においては、自己のアイデンティティは封じ込まなければならない。
ヒジャブを拒絶されたとき、彼らは深い悲しみの淵に追い込まれた。
自由と平等と博愛。
言霊だけを受け止めればそれはそれはすばらしい理念である。
しかし、その実践には、個々人が痛みを伴うなにがしかの選択(取捨)を求められる。
かくして、イスラムの蛮行とそれにこうする活動としての「私はシャルリ」が生まれた。
自由も平等も権利もヒトの社会が作り上げたフィクションでしかないように思う。
人であるために、ヒトは「道理」を描く。
ヒトが人であるためには「道理」でとおさなければならない。
自己のアイデンティティとしての論理を侵害されたとき、
反射的に反応してしまうのはしかし道理とはほど遠い「感情」である。
平等と自由は差別を生み出す。
「自由とはかってきままのことではない。自由とは道理のことである。(内田百閒)」「日本という国は、このことばの訳を間違えてしまった。(内田百閒)」
自由は、結果の平等を補償しない。
自由には自由なりの求められる所作や流儀もある。
自由と平等はある種の原理主義のひとつではなかったかとひとり唖然としてしまう。