#言語を考える
#言語を考える 映像を容易に記録できる時代になって、今、手話は、揮発性という弱点を克服した。書いて記録する書記に対して、動画で記録する動記言語。ここにどのような市民権を与えるかが、手話言語を(書けないことばは言語じゃないよというジャンルの)世間に認めてもらうための方便になろう。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える 言語を確固たるものにするためには独自の書記言語を持つ必要がある。聴覚音声日本語と同じ文字を使うかぎり、日本語を話す人たちはそれを独自とは認めないのかもしれない。日本語対応手話ならそれでいいかもしれないが、日本手話はそれじゃダメだろうと思う。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える 音声言語はその揮発性ゆえに情緒に訴える力に溢れ、書記言語はその滞留性ゆえに論理に訴える力に溢れている。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える 書記言語を持たないことばは、その滞留性のなさから、淘汰されていく。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える ぱ、だ、が、ふぁ の音は区別が難しい。子音と母音の間の時間がほぼほぼ同じだから区別し難い。そんな音をぼくらは目で口型をみて、区別し理解している。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える 母音と子音を周波数特性で分類するとその数は800にも及ぶ。だけど多くの言語の音韻はせいぜい40から80個。それら音韻の特性に冗長性が組み込まれている。日本語は50音とか言われるけど実は40くらいしかない。この冗長性が外国語学習の困難さの原因らしい。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える とき 音声が先か文字が先かという議論がある。だけど最初の最初は、手振り身振りじゃないかと思う。聴者が異国に放り込まれたら、それしか手段ないし。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える ときいつもチョムスキーが気になる。SVCな英語とSCVな日本語。聾児に教える言語聴覚士の先生は、お行儀ができないと文法が身につかないという。帰国子女の文法が微妙なのはさもありなんと。と考えると、言語が自然生成するなんていうふうに思えなくなる。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える とき面白いなと思うのは、中国からの留学生は「マンダリン、ペキニーズ、タイワニーズ、日本語そして少し英語できますだから五ヶ国語できます。」となるが、我が国の学生は「日本語だけです」という。東京弁と標準語と大阪弁と手話できるから4カ国とか絶対言わない。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える とき、普通話とか標準語という概念の中に多くの方言が落とし込まれる。そしてそこに落とし込みにくい言語に対しては排他的な対応を取ることになる。日本におけるアイヌ語やウチナンチュウ、中国におけるウイグル語やチベット語。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日
#言語を考える とき、書記言語との対応性の有無をひとつの目安とするそんな考え方が、日本語圏にはある。方言はすべてひとつの日本語というふうに。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年11月4日