またひとつ電子ジャーナル化する学会が増えた・・・(T-T)
電子ジャーナルになるとなぜかその領域での研究に力を入れる意欲が失せてしまう。もちろん失せてしまう理由は、その領域の研究テーマにもともとそれほど熱意がなかったからにほかならないが、なぜに今まで紙媒体の時は、それほど好きでなくてもその会に在籍し、学会誌を手に取っていたのだろうか・・・
医学会誌が電子ジャーナル化する流れが止まらない。アナクロでアナログな自分は知らせを受けるたびに退会届を出している。装丁も情報だ。視覚と体性感覚の2つのモダリティなしに記憶は獲得できない。紙メディアが(音もださないままで)電子化だけすることは自殺だと思う。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
われわれの行動の全ては「記憶の獲得」にある。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
複数のモダリティが同時に刺激されるとき記憶が獲得される。
それぞれのモダリティはそれぞれに個性を求められる。
紙メディアが電子化するとき、紙メディアは触覚という個性を失う。
彼らが視覚だけになるとき記憶の獲得は弱くなる。
紙メディアの電子化によって失われるわれわれの記憶の獲得手段として、家族との電話=iPhone、文庫分=キンドルペーパーホワイト、ブログ書く=タブレット 、お仕事=Win10、クリエイティブ=Macbookというふうに触覚を変えるしか自己防衛の方法がない。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
日記を書くという行為と、その書いた内容の強い記憶となることの関係性は、日記帳、万年筆、書く場所、お気に入りのBGMなどなど記憶の獲得の条件が揃っている。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
青銅でできた大昔の銅鏡を見るたびに思うのは、「この鏡面とうらの装飾きっと鏡面に価値のあるものほど裏面の装飾が立派だったのではないか」ということ。そしてその鏡面には、ぼくらの知らない方式でまるでCDROMに情報が満載されているように、情報が盛り込まれているんじゃないかということ
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
古代文明の持っていたあまりにすごい知識を知るたびに思うのは現代人の愚かで無知なこと。どうして叡智がそこで途絶えたのかがいつも疑問だった。その疑問がいま解け始めている。そう紙メディアの電子化、情報のクラウド保管。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
羊革の用紙に焼き付けるように書き込んだ書物とか洞窟のおくにこっそりと書いた絵とかしか数千年とか数万年を生き延びていない。文字情報を具体的に質量のあるモノに置き換えることができないとなにものこりようもない(テクストを書かずに残す方法が物語化・寓話化・伝承奇譚化・宗教儀式化)。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年9月27日
写真家はそのことをよく理解できていると思う。先日,知人のモータサイクリストでありフォトグラファー Mr.TAKAは、クラウドファンディングで書籍を出版した。その装丁のこだわりはなんと言えない絶妙なものだった。記憶の獲得の大切さを芸術家はわかっているが、IT信奉者と医学者は理解できていない(医者が五感をわからなくてどうするの(-_-;))
(無断引用:takaさんのFBの写真からオボってみました。)