過去をふり返ってつぎなるしごとにとりかかるかな。
ボクは中学から高校にかけて三島由紀夫を読んだ。藤村も太宰もよんだ。後者はあまりに陰鬱でボクには合わなかった。経験のすくなさがその淫靡な世界の理解にいたらなかった。最近かわばたをよみなおした。雪国や踊り子がエロスであったと当時まったく気づいていなかった。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
当時三島に傾倒したのは、馬術読本 印南清 によるところが大きい。近代馬術としての障害飛越のチームに所属してた当時、練習のあとさきにめを通すのがこの本だった。その序文を三島が書いていた。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
私が耳鼻科に大いに関心を持ったのは、養老孟司の記述を「現代思想」でみるうちに、こうしたへんてこな解剖学者の出自をしろうと東大の解剖学のこれまでの先生方はだれかとのぞいたことに始まる。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
養老孟司の前任者は早世した三木成夫という解剖学者たっだ。かれの研究はロマンに溢れていた。魚の側線器が蝸牛であり、内リンパ液が太古の海であるとかれの書で知ったことが自分を耳鼻科医へとつよくせなかをおすきっかけになった。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
側線器のない魚は死んでしまう。それは水の流れを知ることができずエラ呼吸ができなくなるから。流れに抗するように泳ぎ続けないと魚はしんでしまう。人も同じだ。音楽や会話をかんじられなくなるとそれはもう死んでいるに等しい。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
生まれつききこえない人は死んでいるのか?そんな質問が聞こえてきそうだ。きこえない人は、目で、体で、リズムやうねりを感じることができる。側線器のほとんどは蝸牛になったのかもしれないがその一部はしっかり視覚や体性感覚との相互補完的ネットワークを持っている。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
音楽を聞くとソワソワするこどもがいる。これはソワソワではない。「生まれ持ってのダンサーの証拠だ(ケンロビンソン)」。知覚情報をどこで処理するか。耳か目か皮膚かそれとも第六感か。どこで処理するかによって脳における表象はひとそれぞれにかわり、それゆえにアウトプットたる表現も変わる。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日
https://t.co/DUTsztZYDB耳と脳-臨床聴覚コミュニケーション学試論-中川-雅文/dp/4263215346 鷲田清一さんの「聞くことの力 臨床哲学入門」にインスパイアされてこの本を書き下ろした。
— 聴覚評論家 中川雅文 (@masafummi) 2017年1月18日