了見が狭くなった新高齢者世代
多数決による民意決定はいたるところで弊害を生み出している。道理をわきまえない人たちが一定数集まってしまうとそこには大人数が生み出すエゴとか暴力みたいなものが生まれてしまう。
だから例えば政治においては圧倒的多数を誇る政党であっても野党の意見をくみしたり、弱者救済的に自説を曲げての融和をはかるというのがこれまでであった。
民主党が政権を取ったとき菅直人は「民主主義とは数にもとずく独裁である」と自分が野党だった時に譲歩されていたことをすっかり忘れた言動を取ってしまったことが記憶に新しいように、数の暴力というものが最近少しずつだけども目立つようになってきた。
人頭数をベースに多数決をとるとしたらどうなるのだろうか?
例えば米国の大統領選は巧みな仕組みになっている。一人一人の投票は決して直接選挙には結びついていない。選挙人の選択でしかない。しかも、その州の得票率に応じて選挙人数が決まるのではなく、選挙結果によって選挙人の総取りになる。だから総得票数ではクリントンであったけど、選挙人数ではトランプという逆転が生まれた。
現在のアメリカ国民はこのことの顛末にこまった気持ちを表明するものが少なくない。選挙人のシステムか選挙権のある国民の数だけをベースにしてしまうかというジレンマについてだ。例えば、今回の大統領選挙を数の上での優位者であるクリントンをやはり押すべしという意見を展開することは人口多数決を是とすることにつながる。この論理では中国はいつも正義になってしまいかねない。
独立した個人というものが確立して民主主義のポリシーがしかと根付いているわけではない現状のアジアや中東において民主主義を展開してしまうと、本当の意味での民意を得ていると言えるような手法からほど遠くなってしまう。是々非々での行動が生まれないからだ。イメージとしては、自民、民主、公明、共産、維新という選択肢が、公明、真如、真光、アレフ、ヤマギシしかないみたいな状況になりかねないからだ。EU諸国はでもまさしくそうした文化の対立に迷入しそうな勢いだ。
高齢化の進む、おひとり様の進む地方や都市における人口構造はとくにこれから物言う団塊世代が絡んでくることもあって非常に厳しい状況がうまれつつある。世代間での価値観の乖離があまりに大きい。
つまり、マスとしてボリューミーな団塊世代の独自の見解が民意として前面に出てきているように思ったのが冒頭にあげたニュースだ。
保育所はイヤ!
うるさいのはイヤ!
子どもは嫌い!
そうした大人が増えてきているのにはいろんな理由があると思う。単純に団塊世代だけの話じゃないだろうと思う。だけども彼らの持つマスエフェクトはとても大きい。競争が当然の世界観で最後まで走り抜いた世代だけに前後の世代とは随分価値観が違う。できることなら少しずつばかり足摺りして周りを見回してバランス良い意見を出して欲しいのだが。
なにはともあれ、必要なモノは必要なわけで、どこかに作らにゃならない。
落としどころが議論される前にどちらが勝ちでどちらが負けかを決めるみたいな好き嫌いの議論がクローズアップされる。
そんだ時代にどうも息がつまりそうだ。
💦💦💦