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こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

軽度難聴とは本当に軽度な障害なのか?

ネットを猟集していたら「軽度難聴の状態、特性について 理解を広げていく必要があるのではないか」という論点で議論を求めている人たちがいらっしゃることを知りました。

議論したいと考えていらっしゃる人たちは、

どうやら、

①人工内耳装用で軽度難聴の状態になっている人

②補聴器活用で軽度難聴の状態になっている人

③装用せずに軽度難聴のままで生活している人

 

それぞれの抱えている課題がことなっていることにまで思いをはせていないのではないかと、その問いかけのあまりのシンプルさに

「ちょっと大丈夫かな?そんな論点で語るはなしじゃないんじゃない」

とほかの2つのもあわせて3つの質問を何度も読み返してしまいました。

 

最初の質問である軽度かそうでないかという議論は、

軽度難聴という問題をあまりに矮小化しすぎているのではないかと思ったのです。

難聴には

  • 「伝音性」であるか、
  • 「感音性」であるか、

という大分類があり、感音性の場合にはさらにそれが、

  • 内耳性であるのか、
  • 後迷路性であるのか、

あるいはより高次な

  • 聴覚情報処理系の障害なのか

についての議論が必要であるように思います。

しかしそうした病態に伴い個々異なる状態を考慮した問いかけになっていないに思えるのです。

特に、先天聾児が人工内耳によって聴覚を獲得しても、それは中途失聴者が人工内耳装用した場合に獲得する音の世界は全く異なるし、高度難聴者や重度難聴者が補聴器で得ている音の世界世界ともその脳生理学的質は全く違っています。

このことは健視者がアイマスクでもう者の体験をするように聴者が耳栓とかして難聴者を体験するというようなやり方では、軽度難聴者の抱える問題を追体験することなどほとんど不可能であることを意味しますし、仮にそうしたことに近づけたとしてもそれは実際とはかなりかけ離れたシミュレーションにすぎないだろうと。

 

そこで、ここではまず、

中途失聴、つまり徐々に聴えが悪化していく老人性の感音難聴のことを念頭におきながら、軽度難聴というものがどういう状態にあるのかを整理してみることにしてみました。

 

尚、基本的に思いつくままに書き下ろしているので、今後少しずつ内容は修正加えていくつもりです。その点は容赦ください。 

難聴の程度は聴力レベルによって分類されている

そもそも論になってしまうのだけど、軽度難聴という障害は本当に「軽度な」障害なのでしょうか? という疑問がまず最初だと思います。

ご存じのようにアルファベットのCの文字のように円に切れ目がしつらえられたランドルフ環を提示しその切れ目の向きを問うことで行うのが視力検査です。どれほど小さなCの文字のサイズの切れ目を識別できるかによってひとそれぞれの視力を測定することができます。この視力検査では、1.0とか0.7とか0.1などと数字で結果が示されます。運転免許の取得や更新においては、この値が、0.7 以上であることが求められていて、それ以下のヒトは眼競装用が求められます。

この視力における0.7という値はどれほどの障害なのでしょうか?きこえにおける聴力レベルと比べた場合、どのレベルの難聴に該当するのでしょうか? 

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こんな表を出してしまうと「聴力レベルにおける35dBが、視力の0.7というのは厳しすぎないか?」という声が聞こえてきそうですが、実際のきこえと視力の関係はおよそこのくらいの関係性の中にあるだろうと考えています。

視力検査ではいろんな文字の中から1つだけCの文字を選び出しその視認性だけを評価しています。確かにオージオグラムでは、8つの周波数を見ていますが、例えば、さ という音韻の理解には、3つのホルマントと子音のためにホルマントとは別の1つ以上の高周波帯の聞き分けが必要です。あげくに周波数にまたがった4周波数平均で難聴レベルを決めていますから実際の聞こえの状態とは質的に違ってきます。ですから語音明瞭度検査なんてものも行うわけです。

視力検査というのはだから例えて言うと、4000Hzのとこだけ調べているようなものなのかもしれません。そしてそうならここに示したような視覚と聴覚の対応もなるほどさもありなんと思っていただけるのではないでしょうか。

 

なぜ日本人はなかなか補聴器装用まで至らないのか?

高周波数成分に含まれる「子音」の識別が求められる英語などの言語を取り扱う人たちの補聴器装用はおよそ35dBを超えたあたりからといわれていますが、日本人の場合には、平均聴力レベルで45dBでもまだ装用希望しない人が半数あり、およそ55dB超えるあたりではじめてきこえのハンディを自覚しはじめます。プリサイス(正確)に聞き取れないという状況から、さらに悪化し、「聴き取れない」「わからない」という状況に直面して、はじめて加齢性の感音難聴者は自身のハンディを自覚しはじめているように思います。

 

 

日本語は冗長性な言語だ

子音の識別が困難なほどにきこえにハンディがあっても日本語会話が成立する理由は、どこにあるのでしょうか?

そのひとつとの理由として日本語の持つ冗長性という特質があるようです。

「頭をうなだれる」⇒うなだれることができるのは頭だけ!

「事件はいまだ未解決」⇒「いまだ」と「未」?

「うしろから羽交い締めにする」⇒羽交い締めは基本的に後から行う技です。

「被害をこうむ(被)る」⇒これも2重の言い回しですね。

「犯罪をおか(犯)す」⇒これも2重の言い回し。

こうした重複表現をストイックな言語学者は日本語の使い方が不適切であるといい、寛容な人たちは「日本語のもつ表現のゆたかさ(冗長性ゆえの特殊表現)」と捉えています。確かに、「頭が頭痛」とか「腹痛が痛い」なんていう重複表現のときには寛容な研究者もこれらは「不自然な言い回し」と一刀両断しますが・・・。

 

ボクは、重複表現にある種の規則性のもとに活用されている、聴覚コミュニケーションを豊かにする方法であるというふうに捉えています。さらにいうと、そうしたメリットにもっと気がついてい欲しいと考えています。

冗長性のある言い回しは、総じて「音読み⇒訓読み」の構造をとっているようです。しかもそうした冗長性に富んだはなしことばに対してぼくたちはけっして「その日本語へんだよ!」と目くじら立てては言いません。それよりも「あの人の話はわかりやすいね。」ということのほうがおおいように思います。

 

プレゼンの神様みたいな電通マンなんかでも、

「本日は、ダイバーシティ、いわゆる多様性についての・・・」とか

「今回のコンベンション、あっ、いわゆる総会のことですが・・」

とかいった重複表現を平気で使っていますよね。

 

冗長性に対して目くじらを立てる人たちがいるのは事実です。

しかし、話しことばという文脈の中においては、こうした表現を適度に活用しているほうが、音読みでいきなりぱっとわかりにくい四文字熟語をまくし立てられるよりも聞いたこともないような新しいカタカナ英語でいきなりそのままで説明されてしまうよりも、だれにでも容易に理解しやすくなると言う点でとても役に立っているように思うのです。

 

冗長さが難聴者を助けている?!

スライドを用いたプレゼンテーションには、ふたつのスタイルがあります。ひとつは、テキストベースの情報を盛り込んだプレゼンテーションのやりかたです。このやり方は、演者が滑舌のわるいときにはとくに効果を発揮します。また、新しい用語が満載のプレゼンテーション、新奇性に富んだ内容を伝えるときにもその効果が大きく発揮されます。もう一つは、スライドには写真やイラストあるいはシェーマといったヴィジュアルな情報をメインに盛り込んだプレゼンテーションの方法です。使い古された知識や情報の割合が少なくなくかつそれでも相手にエモーショナルに伝えたいときには、テキスト情報を減らしてビジュアルに訴えるのがいちばんです。こうした場合、冗長性に富んだ話し方がとても有効になります。仮に聴衆が、片方の言い回しを知らなくても、ふたつの言い回しを例示することによって(その場で正確には聞き取れていなくても)その時には文脈的に「そのなんたらかんたらのことだよね。」とキーワードを聞き取れなくてもその大意からおいてけぼりにされることがすくなくなるという効果が期待できます。

 

われわれの生活言語はどちらかというと後者のビジュアル系プレゼンテーションのほうに近いのではないかとボクは思っています。

プレゼンの場面でこうした重複表現が特にプレゼンの冒頭においてしばしば多用されるのは、話者の発音や声色に馴れたり、プロジェクターのファンノイズでマスキングされてしまいがちな音韻を早い段階で脳で把握していくことに役に立っているように思うのです。

 

「耳鳴(じめい)とは、みみなりのことですが・・」というくだりは、耳鳴の研究会ではいつも演者が使う定番の枕詞ですが、耳から話者の音韻遷移パターンをまず認知するという作業があるからこそ、そのプレゼンターのことばを聞き逃すことなく最後まで聴き取れるのではないかと思うのです。

 

軽度難聴は過小評価されすぎていないか

ぼくらの日常生活は、「だいたいテキトー」と「きっちり正確に」の2つがいつも同居しています。

場面場面でボクらは適当にそれを切り替えています。

自動車を運転中のときをイメージしてみてください。

時速80kmか100kmかは運転しているときはだいたいテキトーです。

遠くに歩行者などが見えてきたときには「あっ、少し出し過ぎた。スローダウン、スローダウン」とブレーキを踏みますが、いきなり時速100kmから80kmへとがつんとスピードダウンすることはしません。

ところが、交差点の信号機が赤か青かみたいな状況では、「だいたいテキトー」に判断したりはしません。「あれ、赤かも」と思ったとき反射的にブレーキを踏んでいます。

 

朝のあいさつひとつ例に挙げてみても、「おはようございます」でも「おっハよーさん」でも「おっはー」でも「オースッ」でも全部通じです。入学したときの担任の先生は、厳しく「きちんとあいさつしよう!」なんて言っていますが、時間が経つと、生徒のあいさつが「おっハよーさん」でも「おっはー」でも「オースッ」でもあまり気にしないどころかその違いがある方が「あいつがいないな」なんて識別に役だったりします。

信号機の赤色が日によってピンクやオレンジや朱色に変化してしまうそんな変化に対してはわれわれは許容することができませんがことばという音声情報にはとても寛容です。

 

きこえの冗長性は、前述した文レベルだけでなく、音韻レベルの識別においてもしばしば観察されます。マガーク効果と呼ばれる音韻認知がそれです。

[ba]、[da]、[ga]、[fa]、[pa]の5つの発音の識別は、視覚情報が修飾されたり、欠落してしまいます。本来は[bababa-ba]という音声信号を聞かせていたとしても、そこに[marado-na]とか[bagaga-ba]と発音しているときの話者の表情や口の動きを提示してやると[bababa-ba]とはさっぱり聴えず、[marado-na]とか[bagaga-ba]と口の動きのままの発音であるように認知されてしまいます。実際、補聴器装用者に対して行ったことばのききとり検査でも難聴者の多くが、補聴器をしていても相手の話者の口の動きを参考しにしており、語音明瞭においてその30%は聴覚情報ではなく視覚情報から得ているとする報告もあるくらいです。

ことばのききとりの精度を高めるためには環境ノイズが必要

環境にあるバックグラウンドノイズは、既知のことばのききとりには極めて重要なファクターになり得ますが、新奇にことばを覚えるときには小さな弱い音の存在に気がつくことができませんから、正しい発音で正確に音素や音韻を学ぶことができなくなります。母語固有の、日本語で言うとあいうえの五十音、音韻カテゴリーを獲得するのはおそくとも3歳半までの時期であると考えられています。この時期は、言語獲得期とか言語の臨界期とも呼ばれています。

脳における神経可塑性がゆたかな時期に、日本人の場合には、あいうえおの五十音に相当する音韻情報が脳に刻まれていきます。英語圏のひとにとっては、[a][ae][a:][a:r]とか[r][l]とかを区別する耳へとその時期に育つわけですが、われわれは日本語を操るために、こうした違いに分類して記憶するのではなく だいたい「ア」とか およそ「ラ」みたいなカテゴリに分類してしまいます。実際には乳幼児は、800以上の音素を識別し、100近い音韻カテゴリーの形成を行うわけです。しかし、そうして獲得したかにみえた100ちかい音韻も使わないものはおくにおいやられ40~60個程度しか活用できない耳になっていきます。しかしそうした音韻カテゴリーの形成こそが母語に対して特異度の高い耳になっているとも言えるのですからけして悪いことではないのです(英語教育を小学校ではじめることが話題となっていますが、小学校からはじめてもじつはきれいな英語を話せる子どもに育てて行くのにはすこしタイミングが遅いように思います)。

 

補聴器も人工内耳も電気的なデバイスです。サンプリング周波数はMP3レベルですし、マイクロフォンのダイナミックレンジはおよそ25~95dBですし、帯域周波数は125~6000(あるいは8000)Hzほどしかありません。健聴者のそれが、ハイレゾレベルで、0~120dBであることを考えると、先天聾児が、人工内耳で獲得できる音の世界はそもそもがわれわれとは本質的に異なるものであることが容易に理解できると思います。

 

補聴器や人工内耳のそうしたスペック上の限界は、もちろんデジタル技術の限界というような要素もありますが、そもそもが、会話を成立させることに特化したかたちで開発されたデバイスであるという設計上の課題のほうがより大きな要因となっています。

 

ヒトの聴覚は、前述したように視覚のサポートを強く必要としていますが、同時に体性感覚の情報も部分的に活用しています。五感のどこに注意を向けるかを刻々と調整しながら感覚受容しているわれわれと、限定的な情報に限られてしまう人工内耳を使用しているにもかかわらず、健聴者のように五感の切りかえができない人工内耳装用者は、たとえその障害がデバイスによって限りなく健聴に近い状況になったとしても、聴覚活用のやり方も違えば、学習によってえられた音韻マップも健聴者とはことなるわけです。

やっかいなことは、そうしたデバイスは日々進歩し改良されていて、こうしてボクが課題だと言っている問題点でさえも刻一刻と改善されています。つまり、装用者の抱えている課題は装用者それぞれのデバイスに依存したことなった課題である可能性も否定できないのです。

 

まとめ

ここまでいっきに書き下ろして、軽度難聴を十把一絡げに議論することは、そういう意味で非常に難しいことであり、限られた空間で、どのような読者がそこにいるかもわからないままに議論するのは誤解を招くだけのように思い始めました。

脳生理学や聴覚医学や補聴工学やらといった学際的でかつ高度な知識をベースに議論しないことにはなにも答えを見いだせないそんな袋小路を感じたからです。

言えることは、聴力レベルだけを目安に「軽度難聴」というカテゴリーを一人歩きさせないことだと思います。

パブリックコメントによってなにがしかの答えを出したいと模索している人たちがいることはわかるのだけど、不完全な技術や過渡期のテクノロジーに対してあれはダメこれはダメとか言ってもそれはまさしく今だからどうにもならない話でしかないと思うからです。

 

装用したけどもその状態は軽度難聴まででしかないという状況の人たちに何をすべきかという議論を進めていく上では、こうしたパブコメを使ったアプローチは確かに有用な1つの手段だとは思うけども、デバイスの限界やインフラ予算の問題でしかないことを議論するのはこのタイミングじゃないように思います。

まずはもっとシンプルに「軽度難聴はほんとうに軽度な障害なのか」という視点に立つことで議論を始めることも大事じゃないかそんな風に今ボクは考えています。

 

*この文章は「引用不可」とします。