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こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

ニューロマーケティングの研究が学会でも語られる時代が始まる(^^)

来年3月、京都で開催されるヒト脳機能マッピング学会でいよいよニューロマーケティングのセッションが行われます。医学系でのこうした取り組みはおそらく本邦初ではないかと思います。初春の京都での開催ということもあり、この学会への参加はどうも外せそうにありません。
ヒト脳機能マッピング学会は、脳機能関連でももっとも学際的な集まりです。医学、工学、認知科学、心理などの専門家が、さまざまな視点から脳機能関連の研究成果を発表しています。最近は、教育や小児の発達に関する脳機能関連の発表も増えてきています。海外では「買い物する脳」に対する研究成果などが積極的に発表されるような状況に脳研究もシフトしてきていますが、日本ではまだまだ10年遅れているというのがここのところの流れでした。

そんな状況がやっと2016年の3月に変わろうとしているのです。米国でのニューロマーケティングが紹介されたのは2004年の日経ビジネス誌でしたから本当にひとまわりも遅れていると言えます。さてそのヒト脳機能マッピング研究会で計画されているニューロマーケティングのセッションはというと、4名の演者によるパネルディスカッション形式で行われるようです。おひとかたがニューロマーケティングの市場についてこれからの見通しをお話くださり、お二方が日本におけるすでに行われてきた成功事例の報告をします。最後にニューロマーケティングに関わる倫理など日本における課題というか問題についても取り上げて議論されるよていのようです。おそらくはこうした議論を通じて、日本版NMSBAの設立へとながれがいっきに進むのではと期待しています。

 医学は、いつも、医者の直面した事態(ひとりの医者の経験)が一例報告されることから始まります。そうした一例報告の積み重ね(まずは個人的な蒐集)から症候群という概念が作り出され、いずれそれは研究会などの議論を経て、集合知となっていきます。集合知という認識によって病名が生まれます。かつてはその最初の発見者の名前を配した病名が多くあったのは、そうした観察眼に敬意を表してのことだったのだと思います。当然の流れでその病気は治すべきものとみなされて治療の対象になります。
治療法の確立に向けて多くの医学者が力をあわせます。しかしこの時にはもはや医学はたとえどんなに高邁な医学者のあつまりであっても医療というビジネスに花開かせるための仕掛けになってしまいます。
市場を定義してそこに商品が投入する。どんな治療が効果的でその場合どんな検査結果がその判断に有用であったかと医学的解釈が学会という場で議論され集積されます。京都界隈であった高血圧の薬に関する研究データのねつ造はあってはならぬ話ですが、巨額の富がうごめくことを考えると起こるべくしておこった事件のようにも思います。いずれにせよ白かろうと黒かろうとそうした場で知見はみがかれていきます。

経験的な知識が集積される中、症候群というファジーな概念は独立した明確な疾患概念へ読み替えられる過程がサイエンスです。医学が医療に適応されていく瞬間だと言えます。
こんなふうに考えれば医学も医療も、ビジネスであり、マーケティングになしには成立しないと理解していただけのではないでしょうか。

しかし、医学の用いる統計学や知識の積み重ねさねとマーケティングの世界でのそれらは本質的に違っています。例えば、100年前まで疾患の多くは細菌やウイルスなどの外からの犯人のしわざがほとんどでした。ここ20年は喫煙や肥満など生活習慣といった自業自得、あるいは経年変化というべき加齢にともなう各所の易損から生み出される二次的な変化です。ガンのようにまだよくわからない病気やこれまでは生まれつきと言われてきた遺伝子のバリエーションで生じる疾患もあります。外因と内因それぞれの原因に対する治療がたくさん開発されましたが、ここにきて制御できたかに見えた感染症のコントロールに再び難渋するようになってしまいました。ひとつにはわれわれが飽食となり細菌もウィルスもまた高栄養で強力に育ってしまったことがこうした深刻な問題をふたたび引き起こしたものとわたしは考えています。
さて統計学が医学における最強のツールたりえるのは、原因がどこかにあるはずであるという仮説が成立するからです。目の前の病気の正体が見えなくても様々なデータを寄せ集めて統計処理すればなんとなくあるいはくっきりとその正体をあぶり出すことができます。
ところが教育は医学のようにいきません。そう簡単にいかないのは母集団が普遍に均質と定義することが難しいからです。小学校1年生の公立学校の全国平均も言う目安で考えてみましょう。たくさんの児童がいて私学の選択肢がないエリアでは平均は高めに出ますが、私学の選択肢がありかつ世帯所得が高く教育熱の高いエリアでは公立学校の平均はガクッとさがってしまいます。教育ではこのように母集団の制御がむつかしく真実をビッグデータから見ることがとても難しい面を持っています。
文化や教育水準は時代や環境で刻々と変化するから過去との対比ができない。そう考えるとマーケティングにおける統計学がある意味危うさを常に抱えているという指摘も納得いた抱けるのではないかと思います。どこまでいっても市場調査は結局のところ任意の母集団の傾向としてしか評価できないとボクは考えています(日本で調べれば日本人の特性しかわからないし、来場した顧客が対象ならそこにすでにバイアルが生じます。スマホGPSツイッタービッグデータにはノイズが多く含まれてしまいます)。

マーケティングは、ヒトの行動の観察です。
確かに流行り病のように疫病が蔓延するように売れる商品があるのは事実ですが、それは「選択の科学」で説明がつく現象とも言えます。そこになにかウイルスや細菌のような原因があるわけではありません。興味や関心というトリガーが選択を生み出すのです。
トリガーはだから確率分布的な意味での新奇性依存した要素になりがちです。新奇性を感じるか否かは個々人かその日1日何を見たかったみたいなことで決まってしまいます。そしてそれは常に時代とともに変化します。
他人が持っているから自分も欲しいと思うのは5人にひとりが持っている状況であり、100人にひとりしか持っていないものは奇異なものとして欲しいとも思わない。関心を示しません。8割のヒトが持っているものは水道みたいなもので、すでにコモディティ化していて誰も欲しがりませんし。
コモディティ化は、陳腐ではあるが淘汰されるわけでもない必須だけど当座は価値のないもの例えば水やガスみたいになってしまいます。普及しすぎて関心の対象から外れたものはコモディティとはいえません。
さて、マーケティングではこうしたコモディティ化したものは関心領域でありません。医学における予防接種みたいなものには関心を示さないという言い方が適切かどうははわかりませんがそんな感じのビジネスはマーケティングの取り扱う外にあります。

先ほどニューロマーケティングは選択の科学であると言い切りましたが、それはとどのつまり脳機能の研究、前頭前野の調査に他なりません。ヒトはみずからの脳を道具を使うことによって進化させてきました。かつても今もパソコンの普及は対人口比でそれほどではありません。スマホやスレートはそれらの普及率がもはや90%を超えています。
なにが言いたいかというとヒトの脳はかつてないほどに両手の親指を使うようになりました。たとえばいま私はiPad Air2を両手に抱えて親指だけでタイピングしています。キーボードを使わなくなって久しいぼくの大脳の親指領域はきっと両側性に肥大しているに違いありません。そんな人類が日増しに増えているのです。文字をペンで片手で書くのではなく、単語一つ一つ文字変換するのではなく、親指タイピングすることで脳を変えているのがいまの人類です。

行動は脳が変わることで変化することを考えると、疾病に関する脳研究と同じくらいにマーケティング脳研究も大事な時代にいよいよなったというべきでしょう。それはこうした新しい人類の脳内情報処理パターンを知ることなしには買い物する脳を理解できるわけないじゃないかと思うからです。

はなしがとりとめもなくなってしまいましたが2016年は日本におけるニューロマーケティング元年となりそうです。買い物する脳の研究は、買い物しながら進化する脳を永遠に追いかけつづける時代の幕開けでもあります。