こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

理由を知りたがる人,反対ばかり言う人

「原因は、なんだ!」

「断固反対!」

日本人はどうやらこうしたシュプレヒコールが大好きな国民になったようだ。

ニュース番組をみれば、いつも判を押したように被害者は「原因が知りたい」「原因究明を!」と口にし、選挙で決まった民意をちゃぶ台返しのごとくにひっくり返す行動にでたりする。

  • 原因究明

ホントに日本人が原因究明好きなのか、ボクはそうしたTVの中の風景を見るたびに疑問に感じる。お金で解決と割り切って、真相の一部は迷宮入りでもよしとするそんなムードは日本にはほんとうにないのだろうか。米国のような司法取引ではだめなのだろうか。現実にはそうした玉虫色の決着は少なくないんじゃないかと思うのだ。

日本人はいつごろから「原因を知りたい。」という決まり文句が好きになったのだろう。宗教的なバックグラウンドとかなら昔からそうだったということになろうし、教育がそうした志向を生み出すというならもっと広くの世代でそうした行動があるはずだと思う。

だからそのいずれでもないところにそうした原因究明病のようなマインドの源があると考えたい。

8月になるといろんな不幸な過去の話が話題になる。ナガサキヒロシマ、そして終戦。どれも本当に不幸な話しで二度とあって欲しくない。

原爆を落としたのは非人道的行為である。それを実行した当時の米国大統領の指令こそがその本質である。昔も今も民間人の大量殺戮という国際法違反をする残虐性があの国の指導者にはある。国民性ではなく大統領という職責が残虐性を生み出すのかもしれない。

終戦が遅きに失したのは鈴木貫太郎の「国体保持」の思いにおける逡巡かもしれない( http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/253.html )。

しかし、見方変えれば、

戦争を長引かせたくない(ソ連との原爆開発競争に先手を打つことやソ連に日本が傘下にしていたエリアをみすみす持って行かれたくないといった)米国の思惑としての行動であったり、阿南の軍部掌握(欺くのに)に時間がかかったためというみかたもできる。

原因はひとつではない。

結果(解)はひとつであってもそこにいたる理由は多岐にわたる。

数理モデルで逆問題を解くように政治や社会の事象をひもとくことは難しい。


気が触れたとしか思えないような残虐な事件においてその犯人にその動機を尋ねるなど全くもって意味をなさない。説明を聞けば聞くほどに理解できず殺されたわが子が哀れになり、うちひしがれた気持ちは「極刑を!」という思いしか導き出さないだろう。

ナガサキヒロシマから発せられる被爆者の鎮魂としての祈りは、だから意味があった。しかし、ここ数年は戦後70年という時間による風化を恐れ、「戦争反対」「原爆反対」「安保反対」とその本旨とはことなるシュプレヒコールも唱えられるようになった。もはや鎮魂という目的は失ってしまったように思う。

  • あらゆる技術には、表と裏がある。

私の古い友人は私が医師免許を取得したとき、

「ナカガワさん、いよいよ殺しのライセンス取得ですね(*^_^*)」

とブラックなことを言ってきた。

なんて失礼なヤツだと思ったが、「副作用を正作用と読み替えれば、ナカガワさんはもうゴルゴ13以上ですよ。」と軍事オタクのかれはニコニコ言った。

原爆は原子力発電という平和利用がある。

ワクチンは公衆衛生学的にも重要な予防医学の技術であるが、バイオ兵器の基幹技術でもある。

自衛の軍隊(自衛隊)も使い方を誤れば、それは軍隊そのものになってしまう。

安全とか平和とか健全とかは、結局のところそれを使う「ヒト」次第だ。

あらゆる事象の善悪は結局「ひとのこころ」が絡んでくる。

感情や衝動がすべての決定であるといえるだろう。

だからこそ平時に有事に備えた議論が必要になる。ことさらに危機をあおり、感情や衝動でものごとを決め手はいけない。それは大事なはなしほどそうだ。話し合いをせずに断固反対するのは思考停止に等しいからなにも決めないよりももっとたちが悪い。拒否した脳は何一つ理解することができなくなる。

  • 原因究明や断固反対は救いなのか?

「原因があきらかになり安心しました。」と加害者に赦しを与えた被害者や被害者家族のことばを聞くことは希だ。というかほとんどない。

こうして考えると「原因はなんなんだ!」という叫びは決してその文意を現すことばではないことがわかる。隠された事実を知りたいそんな気持ちから発せられたことばではない。

体の不調を感じたおさなごが自分の知る唯一のことばでもって「おなか(ぽんぽん)が痛い」としか表現できないように、追い込まれた精神の持ち主はそのこころの落ち着かせ場所として原因究明という選択肢を選んでいる。不安が生み出しすメッセージにすぎないように思えるのだ。

  • 断固反対

「断固反対、絶対反対」も原因が知りたい病に同じではなかろうか。

衆議院の安保法案は、民主党も断固反対のフリップをもって立ち上がったから、満場一致?の賛成としてその議案は通過した(賛成は起立ということで反対のプラカード持っていても立ち上がればもちろん賛成(-_-;))。

そうした民主党の愛嬌ぶりはさておいて、多数決でものごとを決めるのは民主主義の原則だ。そしてその決まった意見は反対側も尊重するのがこの社会が選択した統治システムだ。つまり、衆院で可決されれば参院では修正案を出すしかない。

「修正案は廃案(山本太郎)」という議論をだす議員がいるのだからどうにもならない何も修正しなければ、反対者にとって最悪のままの法案を通過させることにしかならない。なんで最後のあがきが意味のない反対で終わってしまうのかボクには民主や社民の人たちのおつむの中が皆目理解できない(もっとしっかり民主主義してください!)。

断固反対ということばも結局のところなにもできない連中の悲鳴にすぎない。彼らには論理的なことばはなく唯ひたすら情動に訴えるシュプレヒコールしかことばを持たない。そうしたふるまいは、社会性や知性の不足を匂わせることをなぜかれらは気がつかないのだろうか。

 

  • メディアとマーケティング

反対の声が大きくなるのは、メディアの様式によるところが大きい。

例えばテレビ討論のとき、議席数に関わらずすべての政党に同じくらいに発言時間が配分される。だから、多数決の世論とはほど遠いニッチな意見がメディアで大きく映し出される。

小数意見がより大きく映し出されるのは、マーケティング的に考えるといかがなものかと思う。なぜなら一見平等とおもえるこうした手法によって、マジョリティは矮小化され、マイノリティに価値が高いようなイメージを与えかねないからだ。

全体の中で1%未満の人たちの意見はいつも無視される。3%に達すると変な連中がいると認識されるようになる。15%を超えると無視できない意見に思えてくる。80%あれはそれは満場一致に等しい。そうしたヒトの生来もつ反応パターンを利用して企業はメディアという場面で広告をうってくる。

5政党がテレビにでても与党の発言時間は他党と同じだとそこには広告と同じ効果ができる。自公で正論を唱えても、残りの野党の方がメディアでは声が大きくなってしまう。メディアが公正性を保持しようと配慮することは大事なことであるが結局のところ反政府な行動を支援する団体になってしまっている?。

  • 何が言いたいか・・

現実を受け入れるよりもなにか別な論点をみつけだし、そこに転嫁する。それは気持ちをごまかすうえで非常に有効なやり方だ。

みずから率先して意思決定するのは先送りしておき、判断しなかった自身はさておいて頃合いをみて反対行動するというのはどうもある世代にまとまって存在している。彼らは彼らなりに自分自身の優柔不断さに対するエクスキューズとしてそんな意味のない、結果責任の伴わない発言を繰り返すことで自己陶酔しているのかもしれない。

 

結局のところ、原因知りたい病も断固反対病もその時に自分は当事者でなかった(意思決定者ではなかった)人たちの不安が生み出したことばにならない嗚咽なんだとおもう。しかし、嗚咽を今更になって振りまくくらいならなんでしっかり投票しなかったのだろう。投票しないことは与党に信任したとおなじなのに・・・

 

 

  • 創造的コミュニケーションにNoはいらない

野党は墓場を掘り起こすようなことばかりしている。

かれらはいつまでたっても具体的な未来を語らない。

池田勇人所得倍増計画じゃないけれど政治家は「具体的な」未来を語るべきだ。

失われた20年とは、政治家が壊す話しばかりで夢物語や未来を語らなかった時代のことだと思う。

インスパイアされてエクスパイアする。

トリガーが引かれてエクスプロージョンする。

時代を前に進めるコミュニケーションは、墓堀(反省)でもなければ反対(思考停止)でもない。

年2%のインフレターゲットって言い方じゃなくて、5年で20%の所得増とかもっと夢のある言い方をするべきだったと思う。言う以上、5%以下の数字は意味がない。インパクトのある15%をこそ言うべきだ。

消費税はいずれ15%になるだろうけど、所得税80%ダウンくらいのメッセージが伴えばだれも文句なんて言わないだろう。そうしたことがいえる絶妙のタイミングで直間比率のみなおしなんかもした方がいいだろうと思う。

 

コミュニケーションにはいろんなスキルや技法がある。感情に訴える手法は一時的にはよいかもしれないが、それでは勝てない。いまのところちっぽけでも夢を小出しにする安倍さんのコミュニケーションスタイルは、反対派や原因究明派に対してよいジャブになっている。おかげで国会は議論で賑わいがあり、メディアも市民の声という本来の仕事としての意見聴取に忙しくしている。

いずれにしても今の時代はとても健全だ。

右も左もみな好き勝手に意見を言っている。

民主主義にはいいところもあれば悪いところもある。

だけど選んだ以上はそのルールに従い少しづつ変えていくしかない。

 

PS

ボクはいま、安倍さんが産婆のようなマインドで談話をだしてくれればいいなと願っている。

 


 耳と脳 臨床聴覚コミュニケーション学試論

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