こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

ASDは方言を使わない!?

http://www.asahi.com/sp/articles/ASH715DPMH71OIPE021.html

弘前大学教育学部の研究者から「自閉症スペクトラム障がい(ASD)児は 方言を使わない」とする報告があった。
 松本教授らは地元の教育・医療関係者に「自閉症の人は津軽弁でなく、共通語を使う」と聞き、2011年に青森、秋田両県の特別支援学校の教員に、地域の一般的な子ども▽知的障害児・者▽ASDの話し方の印象をアンケート。ASDはほかの2者より「方言使用が少ない」との回答が多く寄せられた。そこで京都、高知、鹿児島など全国6地域に調査範囲を広げたところ、同様の傾向がみられた。
ここで考えられることは、
  • ASD児は(習得しているけど)敢えて方言を使わない。
  • ASD児は方言を学べていない(最初から方言の少ないあるいはない環境で成長した)。
  • ASD児は方言を学べない(耳とか脳の障がいで学ことができないあるいは困難さがある)。
の3つのパターンの可能性があると思う。
報告した研究者は、標準語よりもよりコミュニケーティブな音韻言語としての方言は他者との距離感が近いから 対人障がいのあるASD児はそうした距離感の近い言語である方言をあえて使わないのではないかと考えているようだ、というか記事からはそう読み取れる。

ぼく自身を振り返ってみると生活言語としての宇和島弁は相変わらず自分の母語だ。東京の大学で医学を学んだからか標準語でしか患者さんと接するすべを持たない。ずいぶん昔に宇和島で診療を手伝った時は、患者さんからなんで宇和島弁で話さないのかと叱責されたこともある。しかし、方言で話してしまうと感情移入が大きくなりすぎて良い仕事をするのは難しいようにも感じる。英語て書く論文の方が日本語のそれよりも感情移入が少なく淡々とかけるというのも同じような理由かもしれない。栃木に来てからはなおさらだ。アクセント型もイントネーション型も真逆なこの地域の人たちとコミュニケートするにはもはや標準語しかない。だからそこには丁寧さや詳しい説明はあっても心あたたまる音韻コミュニケーションは存在しない。標準語でことたりれば自ずとあえて方言を学ぼうというモチベーションも湧いてこない。

都会の恋、学生時代の恋愛が成就し難いのは、小狡さのない純朴なる若者は最後の最後で方言で何かを伝えようとしてしまうからかもしれない。方言を捨てて、標準語で恋愛することはある意味「仮面人格なふるまい」なのだと思う。


方言には標準語にない非言語成分がずいぶん含まれている。プロソディーは聴覚コミュニケーションにおけるきわめて大事な要素、おんいんが含まれているのだろう。その意味ではディロンが言うように日本語も十分に音韻言語なのかもしれない。

角回や縁上回の機能障がいがありそこは音韻メタファーの処理回路であるとするのはラマチャンドラン博士の説である。そこが外傷などで選択的に機能前に陥ちいるとKYだと言われるらしい。さて、ASD児でもその部位 角回と縁上回 が機能不全の状態にあるらしい。しかしそうした皮質レベルの機能不全は、それがボトムアップ処理のエラーからの問題かトップダウンからの問題かは行動という結果を見ても判断は難しい。

耳鼻科医がいう「難聴がないという状態」は、単一周波数の認知と大きさの認知に問題がないというだけで、うるささへの耐性とか時間分解能は全くもって評価していない。その意味では音声の定義も難聴の定義もまだまだ表層的なレベルにでしか語られていないのだ。そんな背景があるからこそ、ぼくはこうした研究の結果には大変な関心を持つのだがその考察にはいつも批判的になってしまう。

まだ原著に目を通していないので核心的な論評をすることは控えたいが、
方言が標準語より優位になるのは、

  1. マザーリース獲得前にメデイア言語を優先的に獲得してしまう。
  2. 母親との接触時間の短さ。
  3. 軽度難聴。
  4. ハーフあるいは移民、転勤族。
なんて言語獲得のタイミングでのエラーがそこにあるように思えてならない。

この件については原著に目を通してまた改めて論考してみようと思う。