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こちら難聴・耳鳴り外来です!

きこえ、コミュニケーション、そして認知や学習などについて”聴覚評論家 中川雅文" が持論・自説を思うままにつづっています。ときどき脱線しますがご勘弁を(^^;

フランスの銃撃事件について

フランスでは最近不幸な銃撃テロ事件がありました。文化や慣習の間で生じる齟齬のなれの果てみたいなこの出来事、コミュニケーションエラーの極みとわたしは理解しました。

コミュニケーションという視点からこの事件を考えると見えてくる幾つかの問題点について、今後の論考の時の備忘録としてここに記録しておきます。

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フランスでは最近不幸な銃撃テロ事件がありました。

この事件を通して知ったことですが、イスラムの女性がスカーフを取り払うことはわれわれが町の中で裸になるくらい恥ずかしいことなのだそうです。

2005年にパリの学校でスカーフ着用が禁止されたことは彼らにとって大事件でした。学校に通うことができなくなり退学する人も続出したそうです。日本人なら「郷に入っては郷に従え」で現地のルールを柔軟に受け入れたのかもしれませんが、彼らにそれはできなかったのです。

フランスの文化や慣習を重んじる人たちは、イスラムの人たちが「どこでも、いつでも」自たちのスタイルを優先するふるまいを理解し共感することができません。そんな状態が現在もえんえんと続いています。そうした日々の小さなコンフリクトがくり返されるうちに今回あの忌まわしい銃撃事件が生じました。

スカーフというアイコンを取り払うことができなかった彼らは、フランスの自由と博愛と平等を重んじる文化の中ではきっといつもルールブレーカーとしてしか認識されていなかったのだと思います。立場で意見も異なると思いますが、彼らもまた日々いわれなき迫害をうける被害者だったのでしょう。

このような文化を背景としたコンフリクトは、いくら論理的に言語で理解しようとしてもそれを許容するのかとても難しいところがあります。思想信条の違いはどんなに話し合ってもそこに妥協が生まれることはないからです。それゆえに民主主義=多数決 という仕組みが今世の中にあると言えます。

さらに理性的な対話を仮に試みてもお互いが許しあうあるいは許容し合うことを前提とした「心理状態」になければ、そこにある根本的な齟齬は解消されようもありません。お互いが憎しみあってしまった夫婦が離婚するときの壮絶な争議と同じかもしれません。
対話しなければならない問題の核心が領土やお金といった「もの」ならよかったのでしょうが、非言語的な感情という「こと」であるがゆえに落としどころをみつけられない。そこがこの問題の核心になのだと思います(イスラムの人はお金で解決する考えも持たない高潔な人たちです)。

なによりその許容すべき差異が「可視化してはならない(スカーフを取れ)」と「)信仰上)スカーフは取れない」という対立にしてしまったのですからもう出口はありません。なぜならスカーフがものではなくことを表すアイコンであるからです。偶像崇拝を排する人たちのスカーフが、自由と博愛と平等を重んじる人たちからはアイコンとというアナロジーになってしまいました。なんと皮肉なことでしょう。

いずれ人の叡智はそれを乗り越えると信じます。
しかし、当面、双方がその落としどころを見いだすことは難しいとおもいます。

これまでわたしは、「ユニティに向かうグローバリズム」が平和のための最善の道筋だと考えていましたが、現実の世の中は、言語コミュニケーション(大脳)で非言語の問題(扁桃体)を制御することができていないことをあきらかにしてしまいました。

ことばの力だけでは人と人がお互いに理解し合うことは難しい。
われわれはまだまだ下等動物のレベルにあって大脳を有効活用できていないんと

とても残念な気持ちになってしまいました。

 

 追記 歴史的視点と考察に欠けるとの指摘を受けました。言い訳がましくなりますがここでは、人と人が同じ場所にいて分かり合えるために必要なコミュニケーション力とはなにかを一つの軸として論考してあります。そのためイスラム教キリスト教の歴史上のコンフリクトを考慮した形の歴史的考察はここでは行いません。

追記2 あくまでもここに備忘録として書き留めたかったことは、言語のもつ力には限界があるということ、非言語(風刺絵を含む)のもつ力はことば以上に強烈な力を持っていると感じたことをここに記しました。