サルとヒトのさかい目 その2 記憶
感覚記憶、短期記憶、長期記憶
- 感覚記憶...数秒から数十秒程度保持される記憶は感覚記憶と呼ばれます。基本的には、視覚のみあるいは聴覚のみといった一種類の感覚受容のみで記憶される情報です。言語的符号化がなされませんし、そもそもあっという間に忘れてしまいます。脳裏に焼き付くことのない記憶、それが感覚記憶です。
- 短期記憶...数分から数時間くらい保持している記憶です。計算や暗算の時に数字を一時的に脳内にスプールするのがこれにあたります。マジックナンバー7と呼ばれるような意味のないことを覚える力。一度に7つ覚えるのがせいぜいのようです。作業するために必要な大事な能力です。パソコンのメモリみたいなところがあって頭の良いヒトにはこの容量がおおいひともいるようです。
- 長期記憶...言語とか幼少期の記憶とか結婚式の思い出とかほとんど生涯にわたって忘れることのない記憶が長期記憶です。価値のない情報に意味やストーリーを与えることで短期記憶を長期記憶化させています。忘却しないように反復学習することで短期記憶を長期規格化するのはヒトのだいじな営みです。
記憶の変容
- 平準化...他のものと同じとみなす、区別つけないようになる。
- 強調化...極端なかたちに歪曲して記憶する。
- 減衰...全体像がぼやけることもあれば、ディテールが消えていくことも。
- 置換...違う記憶に置き換わる。
手続き記憶、エピソード記憶、写真記憶
閑話休題、長期記憶の話題に戻します。
記憶を長期記憶に変えるためにわれわれは日々学習します。なぜなら長期記憶化には、予習、復習、日々の反復学習が必要だからです。さらに、見て、読んで、書いて、また読み上げる。目で見て、声に出して、それを聞く。視覚、聴覚、運動器を連動させないとただながめるだけの勉強をしても定着はしないのです。手順や手続きを通じて記憶は生涯忘れない情報に変わるのです。ただし、嗅覚と味覚と触覚とサプライズが伴えば、たった一回でもその経験は長期記憶となります。結婚式や大学の合格発表などはその典型ですし、事故や災難でのPTSDは悪い意味での忘れられない記憶です。こうした瞬時に一回で覚えることのできる記憶はエピソード記憶と呼ばれます。われわれは覚えるのに四苦八苦ですが、世の中には瞬時に覚えることができるうらやましい才能を持つヒトも少なくないのです。天才チンパンジーアイの子どもアユムは他のチンパンジーには真似のできないスゴ技が沢山あります。
- コインをつまむことができます。
- それを自販機に投入できます。
- そうすることでジュースを買うことができることを知ってます。
- ゲームに勝つとコインがもらえることを学び、ジュースが欲しい時にゲームでコインを手に入れます。
画面に表示された5つから7つの数字をあらかじめ見せておき、ついで、数字をマスクしたえをみせて、数字が隠されたままでも小さい順に正しく指でトレースすることができたらご褒美のジュースがもらえるというゲーム。モニタには、ほんの一瞬しか数字を見せなくてもアユムはそれを瞬時に記憶し正解を手に入れます。
われわれはほとんどこのチンパンジーがやってのける記憶ゲームでアユムほどの高得点を上げることができません。アユムのみたままをそのままに瞬時に覚えるそんな記憶を写真記憶、フォトグラフィックメモリー、と呼びます。手続き、陳述、スキーマ、エピソードなど何がしかの符号化手続きを踏むことなく 「ありのまま」 に記憶するのが写真記憶の本質です。アユムは、コイン掴み (拇指対立) も出来ます。さらに数字の順番当て (写真記憶) を目の当たりにすると、これはいつの日か、”サル惑” が本当に起こるんじゃないかと思えてきます。アユムの記憶力の原動力は、ジュースという報酬(前頭葉を刺激する刺激)にあるのでしょうね。
*サル惑...猿の惑星
http://kitokito.cc/2007/06/post_40.html
サバンと秀才
ヒトの脳は何が違う⁈
サルとヒトのちがい
遺伝子は1%の差異しかありませんが、行動は本当に異なります。
例えば、ヒトは報酬があるときは恐怖を自ら抑え込むことができます。つまり学習も経験もまったく参考にせず、ギャンブルができる生き物です。もちろん報酬に対する欲求の強さやそれを求めるときのエネルギーはサルも強いことは認めます。
けれどもサルが特定の対象に特定期間だけ興奮する(発情期)のに対して、ヒトは女性だけでなく、一年を通じてそれ以外のものにも興味を持ちつづけます。ヒトはある意味1年中発情期なのかもしれません。ヒトがサルともっとも違うことは、物見高さやギャンブル性をいとわないということだけでHなく、恐怖をコントロールできる、扁桃体の活動を制御できる前頭葉(あるいはその逆で前頭葉を制御できる扁桃体?)を持っていることではなかろうかと思ったりするわけです。